大宋中興通俗演義第七十三回 棲霞嶺に詔して墳祠を立てる (棲霞嶺詔立墳祠)
秦檜の死
何立を東南第一山に遣った後、秦檜は昼間にも冤鬼の恨み声を聞くようになり、病は日ごとに重くなって政務にも出られなくなる。高宗が自ら見舞いに訪れ後事を尋ねても、檜はただ涙するばかりで、和議を守るよう願う以外は何も語らなかった。子の秦熺が父の地位を継がせてほしいと願い出るが、高宗は「秦檜でさえ人心を得ていなかった、お前が継げば長くは安泰でない」と退ける。秦檜は死に臨み、恨みを抱く張濬・趙鼎の子汾・李光・胡寅・胡銓ら五人の名を壁に書き付けて忘れまいとしたが、自らは裁可の書押もできぬまま息絶えた。臨終には舌に肉塊が生じ苦しみ悶えて絶命したという。数日後、妻の王氏も、秦檜が鬼に枷をかけられ「東窗事犯(東の窓での企みが露見した)」と告げられる幻を見て気を失い、そのまま息絶えた。後人はこの顛末を詩に詠み、秦檜の奸悪と天罰を戒めとした。(詩:秦檜夫妻の悪行とその報いを詠嘆する内容)
秦一党の処分と岳飛の名誉回復
秦檜の死は翌日朝廷に伝わり、高宗は詔を下して子の秦熺を罷免し、曹泳ら一党三十二人の官職を剥奪して嶺南へ流した。さらに岳飛・張憲の遺族を都へ呼び戻し、役所に命じて岳飛の墓を整え祠を建てさせ、子孫十二人にも官職を与えた。後の理宗朝では岳飛に武勝定国軍節度使以下の官爵と鄂王の王号、忠武の諡号を追贈し太祖廟に配享するとともに、岳飛の父祖・妻・諸子・諸孫にいたるまで代々の官爵を追贈した。
岳王廟の由来
岳飛の精忠廟と墓所は西湖の棲霞嶺にあり、周囲に植えられた樹木はすべて南を向いて立つといい、王の忠魂がなお宋を思う証しとされた。祠の前殿には岳飛の像を中心に岳雲・張憲の像が配され、後殿には岳飛の父母・妻の像、その子女や配下の武将たちの像も祀られた。墓の傍らには褒忠衍福寺が建てられ、寺領の田で祭祀の費用がまかなわれ、武昌にも忠烈廟が建てられるなど、各地に岳飛を祀る祠が設けられた。後人は趙子昂の詩に和して、南宋中興の興亡が岳飛の生死にかかっていたこと、秦檜の奸計が国を誤らせたことを詠み、西湖の景色に寄せて哀惜の情を述べた。(詩:岳飛の功績と秦檜への恨みを西湖の情景に重ねる内容)