大宋中興通俗演義第五十八回 劉太尉、疊橋で虜を破る (劉太尉疊橋破虜)

兀朮、廬州・和州へ侵攻

  • 延安・慶陽を得た撒離喝は河池を狙うが、鶻眼郎君の進言で兵を休め、兀朮との連携を待つことにした。
  • 汴京に留まっていた兀朮は両河の兵十余万を集めて壽春を陥れ、淮を渡って廬州に迫った。朝廷は張俊・楊沂中・劉錡らに救援を命じる。
  • 張俊配下の王徳は「淮を棄てれば江も守れない」と献策し、伏兵で金軍を叩く策を進言。張俊はこれを容れ、王徳に二万の兵を渡らせた。

和州の攻防と昭関追撃

  • 王徳は夜襲で和州を先取し、張俊本隊も入城。兀朮は宋軍に退路を断たれることを恐れ、韓常に含山県を分け守らせ、自らは昭関に退いた。
  • 金の龍虎大王・馬陵思謀が和州を包囲するが、王徳・汪雄の夜襲で金軍は大敗、龍虎大王らはかろうじて脱出する。援軍の韓常も王徳に撃退された。
  • 王徳は汪雄の慎重論を退けて昭関まで追撃し、大霧の中で内外呼応して金軍を撃破、昭関と含山県を回復した。

劉錡の車戦論と石梁河の戦い

  • 敗走した兀朮は廬州から石臯へ進み、決戦を挑む。劉錡は関師古に東関を守らせ、自らは石臯付近に布陣した。
  • 兀朮は龍虎大王に迂回させ、宋軍を挟撃する策を立てる。劉錡は平地では車戦が有効と説き、拙速な出撃を戒めるが、趙樽らは主戦を主張して出撃し、龍虎大王の伏兵に敗れかける。閻充の救援で辛くも本陣へ退いた。
  • 劉錡は石梁河に浮橋を急造させて奇襲的に渡河し、兀朮を驚かせて陣を後退させた。楊沂中・王徳ら諸将も合流し、軍議の末、張俊を中路、楊沂中・劉錡を両翼として三路から金軍を攻める作戦を決した。