大宋中興通俗演義第五十七回 秦檜、怒って張九成を貶する (秦檜怒貶張九成)

岳飛の撤兵と民の嘆き

  • 岳飛は張憲・王貴に兵の半分を淮南へ、残りを鄂州へ帰すよう密命し、自らも郾城から撤兵を始めた。
  • 官軍の回復を待ち望んでいた州県の民は撤兵を知り、馬前に取りすがって泣き、金軍の報復を恐れて留まるよう懇願した。
  • 岳飛も涙を流し、十三道もの金字牌を示して撤兵はやむを得ぬ事情によるものだと説明し、五日の猶予の間に民を南へ避難させるよう計らい、漢上の閑田を割いて移住地とした。

兀朮の屯田策と張九成の直言

  • 岳飛撤兵の報に兀朮は喜ぶが、深謀を恐れる部下の諫めで追撃を控えた。まもなく回復した府州は再び金の手に落ちる。
  • 龍虎大王の献策により、兀朮は女真・契丹の民を中原に移住させ官田を与えて自活させる屯田制を採用。数年のうちに燕地から河南・淮隴にまで広がった。
  • 秘閣修撰張九成らは岳飛の召還に反対する上奏を行い、秦檜と朝廷で激しく論争した。高宗が和議の是非を問うと、九成は「敵の情は詐りが多く軽々に信じるべきでない」と諫めたが、高宗は黙して答えなかった。
  • 秦檜は九成を邵州知州に貶し、同調した喩樗・陳剛中・凌景夏ら諫官も左遷。以後、朝廷では和議への異論を唱える者がいなくなった。

延安・慶陽の陥落と趙忠植の殉節

  • 金将撒離喝は岳飛撤兵の機に乗じ、鶻眼郎君らに十万の兵を与えて慶陽方面へ進撃させた。
  • 撒離喝自ら延安府を包囲。総管趙惟清は防戦するが衆寡敵せず、金将張兆奴の降伏勧告を受け入れかけるも、安撫使趙忠植に強く諫められる。
  • 内部対立の末、部将彭虎が金軍に内通して城門を開き、延安は陥落。忠植は奮戦の末に捕らえられ、降伏を拒んで斬られた。
  • 撒離喝はさらに慶陽を包囲し、忠植の遺体を利用して降伏を促そうとするが、忠植は死してなお降伏を拒む姿勢を示していたと伝わる。知府宋万年は救援なく孤立し、ついに開城降伏した。
  • 後人は忠植の忠義を詩に詠んで讃えた。