大宋中興通俗演義第五十一回 胡世将、金兵への対策を議す (胡世將議敵金兵)

王倫、金国で抑留される

  • 王倫は汴京で兀朮に会い、高宗の講和の意を伝えた。兀朮は河南・陝西の地を宋に返すのは得策でないと熙宗に上奏し、王倫を金にとどめて越境させないよう進言、熙宗はこれを容れた。
  • 王倫は使者を高宗に送り、金の不信を伝えつつ自らは金に再度赴いた。途中、撻懶らの謀反事件に巻き込まれ、金主の前で弁明したが取り合われず、翰林待制の耶律紹文に尋問された。紹文は王倫が撻懶と通謀したのではと詰め、王倫を河間に拘留させた。
  • 紹文は副使の藍公佐を宋に帰し、歳貢・正朔・誓約や河東の南方在住者の引き渡しを協議させた。

熙宗、河南侵攻を決断

  • 紹文は王倫拘留を熙宗に報告し喜ばれた。使者として戻った張通古も、宋が河南の旧領奪還にこだわり歳貢の話が進んでいないと報告。熙宗は激怒し、河南奪還の兵を出すことを決定。
  • 兀朮を都元帥格の主将とし、黎陽から河南へ、撒離喝には河中から陝西へと二方面から侵攻させることとした(紹興十年五月)。

金軍の南侵と宋諸城の陥落

  • 兀朮は孔彥舟・烏祿・李成らに諸郡を攻めさせ、東京・南京の留守はいずれも降伏、西京の李利用は城を捨てて逃走。河南の州県はほぼ無抵抗で従った。
  • 拱州の王慥と亳州の魏経のみ徹底抗戦を誓ったが、兀朮率いる大軍に敗れ、王慥は矢を受けて落馬、魏経も討たれて二人とも戦死。兀朮は拱・亳の二州を陥落させた。
  • 撒離喝も同州・永興軍・鳳翔府と陝西方面を席巻し、陝右の宋軍は分断され動揺した。

秦檜の動きと高宗の対応

  • 秦檜は和議が破れたことに焦り、給事中の馮楫を通じて主戦派の張濬が重用されないよう画策したが、高宗は「国が滅びても張濬は使わぬ」と拒絶し、秦檜はこれを喜んだ。
  • 東京・南京陥落の報が届くと高宗は激怒し、劉錡・郭浩・呉璘らに防衛を命じ、岳飛を江北諸路招討使に任じて征伐の主力とした。

李綱の死

  • 福州から李綱死去の報が届き、高宗は深く哀悼し、呉玠に続く名臣の喪失を嘆いた。群臣も悲しんだ。(詩:李綱の功績を称える後人の詩)

呉璘、扶風で撒離喝を破る

  • 陝西では諸将が関隘を固めるよう命じられた。撒離喝が河池に迫ると、諸将は撤退・清野策を主張したが、呉璘は弱気論を退け、家族百口を賭して河池を守ると宣言、諸方に兵を分けて守備した。
  • 呉璘は姚仲、李師顏を石壁砦の救援に派遣し、両者は苦戦しつつも協力して金の烏龍先鋒を討ち取り、金兵を大敗させた。撒離喝は扶風に籠城。
  • 呉璘は城下で挑発させて撒離喝を誘き出し、伏兵と火計を用いて挟撃、撒離喝を大敗させて扶風を奪還、金将三名と女真兵百七十人を捕らえた。
  • 金は陝西方面への侵攻を断念。高宗はこの捷報を喜び、東京方面の劉錡への支援と岳飛の出兵接応を命じた。