大宋中興通俗演義第五十回 世輔、計をもち撒離喝を捕らえる (世輔計擒撒離喝)

赦文発布と張濬の警告

紹興九年正月、高宗は和議決定の赦文を発布した。永州の張濬は上疏し、金は信用できず、戦国末期の楚懐王や漢高祖の故事を引いて、河南返還後も金が再び難を起こす恐れを説いたが、上奏は取り上げられなかった。

岳飛の賀表に込めた警告

岳飛も鄂州で赦を賀す表を奉ったが、その中で異民族との盟約は信用できないとし、和議を安易とせず、なお中原回復と称藩を退けるべきとの意を込めた。秦檜はこれに強く怒り、両者の仇隙は決定的となった。

諸将・諸臣の反応

吳璘は自らの功のなさを恥じて賀表を控え、慎んで謝すのみとした。連南夫・楊偉らも和議の失を極言し、秦檜の怒りを買った。史館校勘范如圭はかつて秦檜を「学を曲げ師を忘れ国を辱める」と書で責めていたが、河南返還に際し陵墓修復の使者派遣を進言し、高宗を落涙させた。士㒟・張燾が陵寝修復のため河南へ赴き、荒廃した陵墓を修復して民の歓迎を受けた。士㒟は齊安郡王に封ぜられ、張燾は金への警戒を説いて秦檜に疎まれ成都府へ出された。

評語

張濬・岳飛・范如圭ら多くの忠臣が、和議の危うさと金への不信を繰り返し説いたにもかかわらず容れられず、秦檜の専横が強まる一方であったことが語られる。

李世輔の挙兵

青澗の李世輔は代々辺境を守る家柄で、父李永奇と共に金軍と戦い武功を立てていたが、延安陥落で父子とも捕らえられた。永奇は密かに世輔へ帰宋を促し、世輔は同州知州として赴任した際、宋への内応を図る書を呉中へ送った。

撒離喝の捕縛と逃亡行

金将撒離喝が同州を通過した際、世輔は伏兵で不意打ちして撒離喝を捕らえた。世輔は軍を率いて洛陽へ逃れようとしたが、兀朮の追撃を受けた。世輔軍は張黒鬼・黄彪牙ら金将を討ち取りつつ奮戦し、撒離喝には害を加えない約束と引き換えに崖下へ突き落として解放した。

父の死

逃走中、父永奇は世輔を先に逃がし自らは追撃の金兵と戦って壮絶に戦死し、一族二百余人も殺された。

夏国への亡命と復讐

世輔はわずかな従者と共に西夏へ逃れ、夏主に父母妻子を殺された仇討ちのための援兵を願った。夏主は世輔に、まず牛背夾の賊酋「青面夜叉」討伐を命じた。世輔は曹桓と共に計略を用い、擬装退却と伏兵・火攻めで青面夜叉の軍を撃破し、自ら青面夜叉を生け捕りにした。

延安への帰還と自立

功により夏主は世輔を延安招撫使に任じ大軍を授けたが、世輔は延安城下で総管趙惟清と接触し、和議の赦書を確認すると宋への帰順を誓った。夏の将啾訛がこれに反発すると、世輔はこれを斬ろうとし、夏将王樞を捕らえて延安に籠もった。

対夏戦の勝利

夏主は張暹に鷂子軍二万を与え延安を攻めさせたが、世輔は伏兵の計で夏軍を打ち破り、張暹を討ち取って大勝した。世輔は捕らえていた王樞を礼を尽くして解放し、以後夏は延安を侵さなくなった。

顕忠の名を賜る

世輔は兵馬を募って勢力を整え、呉玠・僂炤の推挙により高宗に召され、護国軍承宣使・樞密行府前軍都統制に任じられた。高宗はその忠義を喜び、世輔に「顕忠」の名を賜った。同年五月、四川宣撫使呉玠が没した。

評語

後人の詩は、呉玠の忠義と功績、蜀の地を守り抜いた武勲を称え、故地回復を見ずに没したことを惜しんでいる。京兆の姚子章もまた呉玠の英傑ぶりと、没後も民に慕われた徳を詩に詠んでいる。