大宋中興通俗演義第四十九回 和議を議し王倫が金へ使いする (議求和王倫使金)
「詔諭江南使」張通古の来朝
金主は張通古・蕭哲を「江南詔諭使」として王倫と共に宋へ遣わし、河南・陝西の返還を告げさせた。張通古は道中、宋の官に臣礼を求め、泗州の守臣向子は拒んで気概を示した。臨安に至った通古は、皇帝に客礼で対応するよう求めた。
秦檜の受詔工作
高宗は金からの封冊を自ら受けることを拒んだため、朝議は紛糾した。楊沂中・解潜・韓世忠らは秦檜に対応を問いただし、秦檜は勾龍如淵と協議。如淵は詔書を宮中に収めれば済むとし、王倫が仲介して張通古に「皇帝は喪に服しているため秦檜が塚宰として代行する」と伝えた。秦檜以下百官が館に赴き臣下の礼で詔書を受け取り、これによって事態は収まった。
高宗と張通古の会見
その後、高宗は通古と会見し、まず河南・陝西の返還を優先し梓宮・太后の帰還は後回しにするとの金の意向を知り、不満のまま通古を金へ帰らせた。
和議反対論の噴出
王庶は和議を諫め、趙鼎の功績を高宗に思い起こさせた。韓世忠は四度上疏して反対し、蘇勝に命じて張通古・王倫を洪澤で襲わせようとしたが間に合わず失敗した。高宗は侍従・台諫に和議の得失を諮問し、曾開・張燾・晏敦復ら多数が反対を唱えた。李綱も上疏し、金の要求(跪拝の礼・赦文頒布・臣従・賠償・割地)を五点にわたり見抜き、一つでも従えば大事が去ると警告したが、高宗はこれを退けた。
胡銓の激烈な上疏
枢密院編修胡銓は、王倫を「市井の無頼」、和議を「陛下を劉豫とするもの」と痛烈に非難し、王倫・秦檜・孫近の首を斬って金使を留め問罪の師を興すべきと訴えた。高宗はこれを不快とし、秦檜は胡銓を狂妄として官職を剥奪し韶州へ流した。范如圭ら多くの官が胡銓の赦免を求めたため、秦檜はやむなく処分を監広州都監倉に軽減した。胡銓の疏文は木版に刻まれ流布し、金人も高値でこれを求めたという。これを賀した陳剛中・吳師古も秦檜の怒りを買い、遠地へ流されて後に世を去った。晏敦復は秦檜の専横をなお危惧した。以後、和議に異を唱える者は次々と貶められた。高宗は韋太后の帰還に備え慈寧宮の造営を命じた。