大宋中興通俗演義第四十七回 岳飛、皇儲の擁立を奏請する (岳飛奏請立皇儲)
建康遷都と岳飛の昇進
紹興七年正月、建康遷都と太廟建立の命が下った。高宗は宣和皇后(韋太后)を思い、遙かに皇太后として尊ぶよう朱震の進言を容れた。春三月、岳飛は建康に扈従し、湖北京西宣撫使・太尉に進み、王徳・酈瓊の軍を配属された。この抜擢により、旧来功のあった張俊(王俊)は岳飛を深く忌み嫌うようになった。
岳飛の北伐建策
岳飛は劉豫が金の中原支配の道具である以上、まずこれを除くべきと考え、上疏して兵を京洛へ進め河陽・陝府・潼関を押さえて叛将を招けば、劉豫を捕らえ金を滅ぼせると論じた。高宗はこの疏に大いに喜び、中興の事を岳飛に一任すると告げた。
秦檜の妨害と張濬との軍議
このとき秦檜は枢密使となり和議を主張しており、岳飛の北伐策を忌んで、都督府での軍務参賛を命じるよう仕向けた。岳飛は都督府で張濬と軍議し、王徳を淮西都統制に、呂祉を参謀とする案について、王徳と酈瓊の不仲を理由に反対し、大将中から人望ある者を選ぶべきだと説いた。張濬が張俊・楊沂中の名を挙げても岳飛は難色を示し、張濬は不快になった。
岳飛、母服のため辞去
張濬の意に逆らったと悟った岳飛は、再び母の喪への服喪を願い出て、今度は許された。岳飛は張憲に軍事を委ね、子の岳雲と廬山へ帰り喪に服した。張濬はこれを怒り、岳飛が淮西軍を欲しての要求だと上奏し、張宗元に岳飛の軍を監督させた。
張宗元の推挙と岳飛の帰任
張宗元は鄂州で岳飛の軍が整然としているのを見て感嘆し、岳飛の再任を奏上した。高宗は喜んで岳飛を召還した。
皇儲擁立の議
岳飛は謁見し、恢復のためにはまず国本(皇嗣)を定めて人心を安んずべきと進言した。高宗は同意し、太祖の子孫より聡明な者を捜させ、趙伯琮(後の孝宗)を宮中で養育させた。岳飛はこれを見て中興の基だと喜んだ。
良馬問答と加増
高宗が岳飛に良馬の話を尋ねると、岳飛は「力ではなく徳のある馬こそ良馬」と答え、飼育を惜しまず力を出し惜しみしない馬と、少食で気短な駑馬とを対比して論じた。高宗はこれを高く評価し、岳飛に食邑五百戸を加え江州駐屯を命じた。岳飛はその後も太尉の職を辞そうと再三上表したが、いずれも許されなかった。
酈瓊の叛乱と呂祉の死
淮西都統制王徳と副統制酈瓊は不和で、酈瓊は呂祉に不満を訴えたが、呂祉に諭され一旦は収まった。しかし呂祉が密かに酈瓊を除くよう上奏したことが漏れ、酈瓊は激怒して呂祉を捕らえ、趙文らと共に四万の兵を率いて劉豫へ叛き投じた。逃走の途上、呂祉は劉豫への同行を拒んで罵り、酈瓊に斬殺された。呂祉は後に資政殿大学士を贈られ、その妻は帛を抱いて殉じ、忠節を称えられた。