大宋中興通俗演義第四十六回 岳飛、上表して情を陳べる (岳鵬舉上表陳情)

高宗の停戦命令と岳飛の目病

斉軍が退き兀朮も金へ帰った後、高宗は岳飛に東進を止める御書を下し、あわせて眼病を気遣った。岳飛は詔を受け九江まで軍を進めていたが、上疏して機に乗じ中原回復を図りたいと願い出た。高宗は重ねて岳飛の忠節を嘉賞しつつも、淮西が平定された以上これ以上の進軍は不要として鄂州への帰還屯駐を命じた。

岳飛の詞と母服の願い

詔を読んだ岳飛は、好機を逃すことを嘆き「小重山」の詞を壁に書きつけた(詞:夜半に目覚め、功名と望郷の思いに眠れぬ心を詠う)。さらに岳飛は、幼くして父を失い母の養育に恩義があるとして、母の喪に服することを願う上表を行ったが、朝廷はこれを許さなかった。

張濬と趙鼎の確執

張濬が呂祉を遣わして辺防の措置を奏上させると、高宗はこれを喜び趙鼎に「張濬はよくやっている」と述べた。趙鼎は、この功は忠臣義士たちの働きによるものであり張濬一人の手柄ではないと諫めた。呂祉がこのやり取りを張濬に伝えたため、張濬は趙鼎を恨み、以後奏上のたびに趙鼎を暗に非難するようになった。高宗はこれを見抜き趙鼎に告げたが、趙鼎は自ら身を引くことを願い出た。張濬は召還されると、かえって趙鼎の留任を進言し、事は一旦収まった。

遷都論争と劉光世の処遇

十二月、群臣が再び遷都を議した。趙鼎らは臨安への帰還を勧めたが、張濬は建康進駐と河南攻略を主張し、あわせて酒色に溺れ戦わぬ劉光世の罷免を求めた。趙鼎はこれに反対したが容れられず、高宗は張濬の議に従って建康へ進み、劉光世を罷免してその軍を呂祉の統率下に置いた。趙鼎は張濬との不和からいよいよ退官を望み、ついに紹興府知事に降された。

太上皇帝崩御の報と喪礼の議

通問使何蘚が金より帰り、洪皓の書状により太上皇帝・太上皇后の崩御が知らされた。高宗は痛哭し、群臣に対応を諮った。張濬は「以日易月」の略式喪礼で軍務を進めるよう勧め、高宗はこれに従い外朝は略礼、後宮は三年の喪とした。知嚴州事胡寅のみ三年の喪と天下への感化を求めたが、張濬は天子の孝は宗廟社稷の存続にあるとして高宗を諭し、高宗はこれに従った。あわせて諸将に発喪させ、王倫を金への奉迎梓宮使とした。

評語

張濬は自らの疏で、十年にわたり私事を顧みず北伐を誓いながら結局成果を挙げられなかったことを悔い、罷免を願い出たが、高宗はこれを許さなかった。