大宋中興通俗演義第三十七回 韓世忠、大儀で激戦する (韓世忠鏖戰大儀)
親征の軍容と諸将の配置
- 紹興四年冬十月、趙鼎・張濬が教場で二十万の軍を調練し、高宗に報告。高宗は大いに喜び親征を決意する。
- 張濬は岳飛を淮に召し合流させ、自身は鎮江に赴いて劉光世・韓世忠らを督し兀朮と決戦する策を奏上、高宗は平江に進んで齊軍に当たることとした。
- 妃后らは温州から海路で福建泉州へ避難させた。趙鼎は高宗の親征の意志が揺らぐことを案じ、大江の険を失えば江南も保てないと諫め、高宗は決意を新たにした。
- 江東淮南路は劉光世、鎮江建康淮東路は韓世忠、荊南・岳・鄂等六州は張俊、江西路は岳飛、利州路は吳玠、明州沿海は郭仲荀が、それぞれ兵を率いることとなった。
韓世忠、偽りの窮乏を演出する
- 高宗は魏良臣を金に使わし和議を説かせる一方、韓世忠には揚州駐屯を命じるが、趙鼎は鎮江が金軍の来路にあたるため反対する。しかし高宗は聞き入れず、世忠に移動を命じる使者を送った。
- 世忠は主君の憂いに感涙し、部下と協議。折しも魏良臣が鎮江を通過するとの報を受け、これを好機と見て軍中の炊事の煙を絶やし、兵糧が尽きたように見せかけた。
- 魏良臣が世忠を訪ねると、世忠はわざと窮乏と揚州への移動を仄めかして帰した。魏良臣はこれを不快に思い急ぎ金軍へ向かう。
- その後、趙鼎の奏により世忠の揚州移動命令は撤回され、長江防衛に戻るよう指示が届く。世忠は良臣が既に境を出たと見て、解元・董収に伏兵を配置させ、自らは大儀に主力を伏せ、蘇勝・霍武にも別働の伏兵を命じた。
大儀の戦い
- 魏良臣は金軍で聶兒孛堇に、韓世忠軍の窮乏と移動を告げる。聶兒孛堇は喜び、大軍を進めて大儀に迫った。
- 世忠は霧に紛れて蘇勝・霍武の伏兵で敵を挟撃し、金軍は大敗。撻不野は捕らえられ、聶兒孛堇は敗走するも解元・董収の伏兵にも次々と阻まれ、ついに五千騎のみで北へ逃げ延びた。
- この一戦で金軍は六、七万が溺死・戦死し、撻不野以下二百余人が捕虜となり、輜重・衣甲を多数鹵獲した。
論功と評価
- 諸将が世忠に戦術の的中を問うと、世忠は魏良臣が不忠の徒で敵に虚実を漏らすと見抜いていたと答え、皆感服した。
- 高宗はこの捷報に大いに喜び、沈與求は建炎以来初めて金軍を正面から打ち破った戦とこれを称え、世人はこの戦を中興武功の第一とした。