大宋中興通俗演義第三十一回 劉豫、汴梁城に都を建てる (劉豫建都汴梁城)

劉豫の汴梁遷都と翟興の抵抗

  • 金の傀儡皇帝となった劉豫は、中原・陝西を領し東平府に都したが、山川険阻な汴梁への遷都を群臣に勧められ決意する。
  • 河南鎮撫使の翟興は劉豫の遷都を阻もうと鳳牛山に五千の兵を出して道を塞いだ。劉豫は翟興を武勇の士と見て、書状を送り王爵をちらつかせて降伏を誘う。
  • 翟興は書状を引き裂いて使者を斬り、劉豫軍と鳳牛山で交戦。裨将楊偉が劉豫の子・劉麟を破り、劉豫軍は大敗して五十里余り退いた。

楊偉の裏切りと翟興の死

  • 劉豫の従事・張汝弼は、旧知の楊偉に接触して寝返りを説く。楊偉はいったん承知しつつも、翟興配下が見張っているため慎重に運ぶよう求めた。
  • その夜、楊偉は短刀を隠して翟興の陣に潜り込み、寝所で翟興を刺殺してその首を持ち去った。翟興配下は動揺したが、日頃の恩義に厚かった翟興の死を惜しむ者も多く、軍の半ばが離散した。
  • 楊偉は翟興の首を劉豫に献じ、兵馬副元帥に取り立てられた。

劉豫の東京入りと圧政

  • 劉豫は汴梁(東京)に入り、父祖を皇帝として祀り、宋朝太廟に神主を安置した。その日は暴風が吹き荒れ、街中が震え、人々は不安に包まれた。
  • 劉豫は子の劉麟に皇子府を開かせ、民間の壮丁十余万を徴発して軍とし、東西二京の墳墓を暴いて副葬品を奪わせるなど、民を苦しめた。
  • (詩:戦乱で荒れ果てた村里と、墓を暴かれ搾取される民の惨状を嘆く内容)

岳飛、曹成討伐に向かう

  • 岳飛は洪州に駐屯中、朝廷より韓世忠とともに江西・湖広の賊を討つ命を受ける。賊将曹成は十余万の兵を擁し賀州・道州を陥落させていた。
  • 岳飛は曹成討伐を急務と考え、朝廷より荊湖東路安撫都総管・権知潭州に任じられ、広東広西の兵も統轄下に置き、招降・討伐の権限を得る。
  • 紹興元年四月、岳飛軍は洪州を発ち、暑さの中を進軍した。

招諭と上奏

  • 衡州茶陵県で招諭の榜文を掲げたが、曹成は勢力を恃んで従わなかった。岳飛は上表し、賊を放置すれば広西へ逃れて害が広がると訴え、討伐の決意を述べた。
  • 別の上奏では実際の出陣可能兵力がわずか一万余に過ぎず、曹成勢十万に対し後詰めを求めた。
  • 軍糧の不足について、漕運使趙子璘が朝廷の指示なしに応じなかったため、岳飛は札子を奉り、高宗は激怒して漕運諸路に督促の勅命を発した。岳飛は勅諭を受け、賀州へ向け進軍した。