大宋中興通俗演義第三十回 韓世忠、建州を平定する (韓世忠平定建州)

和尚原の大勝

  • 兀朮は宋軍が糧道を焼いたと知り兵を分けて救援させたが、安雄軍に分断され散々に敗れた。吳玠も攻勢に転じ、金軍の陣は崩れた。
  • 撤退中の兀朮は矢を二本受け、副将沒立も矢に当たって落馬死。十万の兵の半数が失われ、屍が数十里に及んだ。
  • 渭河の浮橋は湯威に断たれ渡れず、兀朮は烏魯折合の勧めで鎧を脱ぎ鬚髯を削って正体を隠し、辛くも寶雞へ逃れた。兀朮は「南侵以来これほどの挫敗はない」と嘆いたが、味方に励まされ雲中へ帰還した。
  • 吳玠は諸将の戦功を集計し、渤海・漢児の降兵二万余を得るなど大勝に終わった。金軍来襲時、離反しかけた者もいたが吳玠は諸将と歃血の誓いを結び、忠義を尽くさせて勝利に導いた。

評語

後人の詩は、和尚原での血戦により中原の危機が救われたことを称え、高宗が和戎の策に惑わされず二帝の帰還が実現することを願う内容。

  • 吳玠は湯威・安雄・吳璘をそれぞれ鳳翔・散関・箭筈嶺に配して防備を固め、捷報を行在に奏上。高宗は「川蜀の道は遠く久しく音信なかったが、吳玠が数千の兵で金の十余万を退けた」と喜び、詔を下して賞した。

韓世忠、建州の范汝為を討つ

  • 建州で范汝為の乱が激化し官軍が敗れたため、趙鼎の推挙により韓世忠が討伐に赴いた。世忠は水陸から進撃し范汝為軍を撃破、汝為は霍武に討ち取られた。弟の范岳・范吉も蘇勝に捕らえられ斬られた。
  • 世忠は建州入城後、賊に従った民を皆殺しにしようとしたが、李綱の諫言(多くは已むを得ず従っただけとの指摘)を受けて思いとどまり、民を選別して寛大に処遇した。建民は感謝し生祠を建てた。
  • 李綱は世忠と時局を語り、和議に偏る朝廷への憂いを述べて福州へ戻った。世忠は李綱の才を高宗に推薦し、また臨安建都を進言。

遷都臨安と秦檜の失脚

  • 高宗は世忠の捷報を喜び、李綱を湖広宣撫使に任じ赦免。呂頤浩の勧めもあり臨安への遷都を決定した。
  • 臨安に至った高宗は秦檜を参知政事とするが、起居郎王居正は秦檜が「恢復中原」を語りながら実行が伴わないことを指摘。秦檜はこれを恨み王居正を左遷させた。
  • 高宗が秦檜に策の実行を問うと、秦檜は「黄河以北は金へ、中原は劉豫へ譲り江を境とすれば争いは止む」と述べ、高宗が「自分は北方の生まれだが、どちらに帰属するのか」と問い詰めると答えに窮した。
  • 殿中侍御史黄龜年が秦檜を弾劾し、高宗はこれを容れて秦檜の相位を剥奪した。