大宋中興通俗演義第二十一回 洪皓、節を持ち金国へ使いする (洪皓持節使金國)

崔縦の同行

高宗が洪皓に副使として推薦する人物を尋ねると、洪皓は靖康年間に殿中侍御史を務めた崔縦を挙げた。崔縦は剛直な人柄で知られていた。高宗はこれを喜び、崔縦を召し出して洪皓に同行し、道君皇帝(徽宗)へ帝の意を伝えるよう命じた。崔縦は臣としての務めを果たすと即座に応じ、洪皓とともに数十人の従者を連れて燕京へ向かった。

金営での抗論

秋の初め、道中は賊が横行して難路であった。太原に着くころには従者はほとんど失われ、洪皓・崔縦の二人だけが残った。太原府で金の元帥黏沒喝に謁見した二人は拝礼せず、脅されても死を恐れぬと言い放った。側近が「宋の正使を殺せば禍がある」と諫めたため、黏沒喝は二人を雲中の斡離沒のもとへ追いやった。斡離沒は二人を留め置き、劉豫への仕官を勧めたが、洪皓は「万里の使命を果たせず北帰もできぬなら死んだ方がよい、劉豫のような裏切り者に仕える気はない」と拒絶し、斡離沒を激怒させた。処刑されかけたところを、ある武官が「これは真の忠臣だ、殺しても益はない」と取りなし、二人は劉豫のもとへ送られたが、そこでも劉豫を面罵して屈しなかった。劉豫は返答できず、二人を斡離沒のもとへ送り返した。

冷山への流謫

斡離沒は二人を冷山に流し胡人に監視させた。道中の平陽駅で洪皓は志を託した詞を一首詠み、崔縦も長律を詠んで応じた(詩:望郷と忠節を歌うもの)。冷山では衣食に窮し、酷寒に苦しんだ。金の陳王谷神が二人を招いて降伏を促したが、二人は少しも屈せず、谷神はその志の固さに感じ入り、罪を問わず冷山へ送り返した。

崔縦の死

洪皓は老母を思って涙するが、崔縦は「臣たるもの公を先にし私を後にすべき時」と諭した。以後二人はいっそう節を守り、死を誓い合った。金は数か月衣食を支給せず、二人は馬糞で麺を煮て食すほどの苦境に陥った。崔縦は使命を果たせぬ無念から病を得て衰弱し、洪皓の看病もむなしく死期が迫った。崔縦は生死は必然であると達観しつつ、洪皓に「忠義の二字を貫け」と言い残して息を引き取った。洪皓は哀哭し、遺言どおりに葬儀を執り行い、弔いの詩を詠んだ(詩:崔縦との友情と忠義を偲ぶもの)。後に洪皓が帰朝した際、崔縦の遺表を高宗に奏上し、高宗は崔縦に諡号を贈った。

洪皓の帰還報告と高宗の遷幸

崔縦の死を知った斡離沒は喪礼の品を送り、洪皓を平陽駅に移して金主の裁可を待たせた。洪皓は崔縦の柩を冷山に葬り、碑を立てた。やがて杜時亮が使者として黏沒喝のもとから帰国する際、洪皓は崔縦の死を語り、二聖の消息を得るまで自分は帰らぬと告げ、あわせて金軍が南侵の準備を進めていることを伝えた。杜時亮は高宗に復命し、崔縦の殉節と洪皓の近況、二聖がなお五国城にあること、金軍が雲中から大挙出兵しようとしていることを奏上した。高宗は哀感し、韓世忠を浙西制置使として鎮江に、劉光世を江東宣撫使として太平・池州に配して防備させた。諸将との協議で、張浚・辛企宗は長沙への遷幸を勧め、韓世忠は河北・山東を失った上に江淮まで放棄すべきでないと反対、呂頤浩は常・潤二州を死守しつつ帝を安全な地へ移すことを進言した。高宗は結局、杜充に建康守備を託し、群臣とともに長沙へ移り、以後淮の防衛は議されなくなった。