大宋中興通俗演義第二十回 韓世忠、苗翊を大いに破る (韓世忠大破苗翊)
苗傅、朱勝非の勧めで復位を決意
- 張濬の大軍が動いたと知り、苗傅は朱勝非に相談。勝非は「今のうちに帝を復位させれば禍を福に転じられる」と説いた。
- 苗傅は百官を率いて睿聖宮に朝し、高宗に赦しを乞うた。高宗は「もとより自分が望んだ地位ではない、いま譲り返せば汝らも救われる」と応じ、太后の詔により復位が決まった。
- 高宗は元の位に復し、隆祐太后を隆祐皇太后と尊称、建炎の年号に戻した。苗傅・劉正彥はいったん淮西制置使・副使に任じられた。
臨平の戦い
- 呂頤浩・張濬の大軍が臨平に至ると、苗翊・馬柔吉が二万の兵で迎撃態勢を取った。
- 呂杭(呂頤浩の子)と苗翊が一騎討ちとなり、三十合以上戦った末、張濬・呂頤浩の後続部隊が加勢して苗翊・馬柔吉を敗走させ、両者は湖口で雷春の軍と合流し陣を構えた。
湖口の激戦
- 韓世忠が秀州から出撃し湖口に迫るが、鹿角による水路封鎖に阻まれ、上陸して雷春と激戦、五十合戦って勝敗つかず。
- 張俊の軍が加勢して挟撃し、雷春は敗走の末、劉光世に討ち取られた。
- 韓世忠はさらに攻め立て、苗翊を一刀のもとに斬り、馬柔吉も張俊に討たれて湖に落ちて死んだ。
- 苗傅・劉正彥は苗翊らの敗死を知り、精兵二千を率いて夜のうちに湧金門から脱出した。
反乱の終結
- 呂頤浩・張濬が入城し高宗に拝謁、遅参を詫びた。高宗は感激し、張濬に玉帯を賜り、韓世忠には反乱に加担した中軍統制呉湛の誅殺を命じた。
- 韓世忠は呉湛を捕らえて奏上、呉湛と王世修は共に処刑され、苗傅の残党も処罰された。
朱勝非の辞任と論功
- 朱勝非は苗傅の府に出入りしていたことを恥じ、辞任を願い出た。高宗は慰留したが勝非は固辞し、後任として呂頤浩を推薦した。
- 高宗は呂頤浩を尚書右僕射に、劉光世を御営副使に、韓世忠・張濬を御前左右軍都統制に任じ、苗傅・劉正彥の捕縛を命じた。魏国公旁を太子に立てた。
苗傅・劉正彥の処刑
- 韓世忠が浦城で苗傅を、劉光世が劉正彥をそれぞれ捕らえ、囚車で行在へ送った。高宗は両名と一族を市曹で処刑し、首級をさらして示した。
- 高宗は群臣に「苗傅らは自ら禍を招いただけだ、汝らはこれを鑑として名節を守れ」と諭し、自ら四つの過失(治国の大略の欠如、難局打開の遠謀の欠如、民を安んずる徳の欠如、臣下を統御する権の喪失)を認める罪己の詔を下した。
趙鼎・張守の上疏
- 司勲員外郎の趙鼎は、王安石の変法に始まり蔡京に至って国難を招いた経緯を説き、いまだ王安石が神宗廟に配享され蔡京の党類が除かれていないことを正すよう求めた。
- 中丞の張守は、二帝(徽宗・欽宗)が異国で辛苦していることを常に思い起こし、政務に励むよう諫める上疏を奉った。高宗は涙を流し、洪皓を大金通問使に任じて太上皇の消息を尋ねさせることとした。
- 洪皓は同行させたい人物を一人推挙する、と奏上したところで本回は終わる。