大宋中興通俗演義第十六回 宗沢、兀朮の軍に大勝する (宗澤大勝兀朮兵)

西安橋の攻防と兀朮の敗走

  • 黏沒喝(ネンモカ)と兀朮の大軍が西安橋に迫ると、汪泰が待ち構えて一戦を挑み、退くふりをして敵を誘い込んだ。
  • 雞籠山では劉衍・何賢の伏兵が左右から突出し、兀朮は退却を余儀なくされる。
  • 汪泰が西安橋を落とし、対岸から矢を射かけたため胡兵は多数討たれた。宗澤の本隊も山谷から現れ、金兵は輜重を捨てて敗走。
  • 王宣の一隊がさらに追撃し、九龍河で遼の降将王策を生け捕りにした。兀朮らは雲中まで逃げ込んだ。

王策の降伏と宗澤の情勢分析

  • 宗澤は自ら縄を解いて王策を厚遇し、金国内部の事情を尋ねた。
  • 王策は、金主が荒淫で兵事に明け暮れ、国内は疲弊し重臣も不和で敗戦が続いていることを語り、「中原はまさに興るべき時」と述べた。
  • 宗澤はこれを受けて大挙北伐の計画を固め、諸将に忠義を尽くして二帝(徽宗・欽宗)を迎え還すよう訴えた。将たちは涙し、剣で石を斬って決意を示した。
  • 宗澤は王宣に滑州守備を命じ、要害に将を配して金軍の再来に備えた。

岳飛の復命と高宗への上奏

  • 岳飛が偵察から戻り、金軍を討つべき好機を宗澤に報告。宗澤は喜び、息子の宗穎を都に遣わして高宗の帰京を促す上疏を奉らせた。
  • このころ高宗は国政を汪伯彥・黃潛善に委ねており、綱紀は乱れ、各地で盗賊が蜂起していたが、二人はこれを隠蔽していた。内侍の邵成章がこれを弾劾したが、逆に高宗の怒りを買い左遷された。
  • 宗穎の上疏は、天下の機運を捉えて中興を果たすべきこと、両河の義兵や降盗の大軍が帰順を望んでいること、陛下自ら帰京すれば人心が一つになることを説いた。

追加の上奏と黄・汪の妨害

  • 高宗は上疏に加え、馬擴が信王を奉じて渡河するとの報も聞き、いったんは帰京を許す詔を出した。宗澤は大いに喜び、進軍の準備を進めた。
  • さらに河北制置使の王彥と呼応し、渡河して懷・衛・濬・相などの州を奪還し、義民百万を糾合し、遼の遺臣や契丹・夏・高麗にも働きかけて金を挟撃する大計を上奏した。
  • しかし汪伯彥はこれを「狂者の迂闊な議論」として退け、高宗は結局これを許さなかった。

宗澤の死

  • 宗澤は前後十数回上奏したが、いずれも黄潜善・汪伯彦に阻まれた。再度の北伐が拒まれると、持病が悪化して床に伏す。
  • 見舞いに来た諸将に「もはや共に賊を討てぬ」と語り、岳飛が慰めても「二帝が異国に囚われている無念でこの病になった、汝らが敵を滅ぼしてくれれば思い残すことはない」と述べた。諸将は涙して忠誠を誓った。
  • 翌日、家事には一切触れず「河を渡れ」とだけ三度叫んで息を引き取った。享年七十、建炎二年秋七月のことで、都人はみな慟哭した。

評語

  • 劉后村の詠史詩を引き、南渡の朝廷が謀を誤り、江南に偏安して北征を軽んじたことを嘆く。宗澤のような忠臣を晩年になってようやく用いながら、その死を惜しむ内容。

杜充の代任と義軍の離反

  • 高宗は宗澤の死を嘆きつつも、杜充を東京留守に任じて後任とした。都人は宗澤の子・宗穎を後継に望んだが許されなかった。
  • 杜充は酷薄で智略に乏しく、宗澤の定めた規律をことごとく改めたため、豪傑たちの心は離れ、帰順していた旧盗賊も再び叛乱を起こした。

濟南府の攻防と劉豫の裏切り

  • 宗澤の死を知った金の撻懶(タラン)が十万の兵で南下し濟南府を包囲。守将劉豫の下、猛将関勝が五千の精兵を率いて出撃し、金の先鋒斡裡訛を斬って大勝、劉麟の別動隊も呼応して撻懶軍を撃退した。
  • 敗れた撻懶は副将黄朵兒と謀り、関勝の武勇を恐れつつも、貪欲な劉豫を金帛と王爵の約束で誘えば降伏させられると判断し、使者を送って和議を装い懐柔した。
  • 劉豫は金の書状と賄賂を受け取り、子の劉麟と密議のうえ投降を決意。抗戦を主張する関勝が邪魔になると考え、次の軍議で関勝の出撃案を退けたうえ、謀反の疑いをかけて処刑した。関勝は「中原を回復できぬのが無念」と叫び刑死。

評語

  • 後人の詩は、関勝が金に屈せず義に殉じたことを称え、降虜の恥知らずと対比して称賛する。

濟南府の陥落

  • 関勝を斬った劉豫は住民に降伏を呼びかけたが応じる者はなく、劉豫父子は夜間ひそかに城を抜け出し金営に投降した。撻懶は大いに喜び、翌日入城して劉豫を旧職のまま濟南府に復させた。