大宋中興通俗演義第十二回 李綱、車駕の南行を諫める (李綱諫車駕南行)
賊徒の招撫と鎮圧
- 張所の河北招撫が進む一方、祝靖・薛広・党忠ら十余万の潰兵・盗賊が行在に帰順を願い出た。李綱は光武帝や曹操の故事を引き、良民は帰農させ、壮健な者は新法で軍に組み入れるべきと献策し、高宗はこれを許した。
- なお招撫に応じない淮南の杜用、山東の李昱・丁順・楊進らの大盗が各地で害をなしていた。李綱の進言により、王淵に杜用討伐、劉光世に拱州の叛兵討伐、喬仲福に李昱討伐、韓世忠に魚台の賊討伐を命じた。
王淵、杜用を討つ
- 杜用は淮南の驍勇な賊で五虎山に拠り数万の衆を擁していた。宋軍来襲の報に、疲れた宋軍の隙を突いて夜襲を企てるが、これは王淵の備えのうちであった。
- 夜襲した杜用は伏兵に迎え撃たれ大敗。副将章雄は討ち死に、拠点の五虎山も落とされ主将郭興は捕縛された。敗走する杜用は王淵と一騎打ちの末に深入りし、泥沢にはまったところを槍で刺され討ち取られた。
- 王淵は大勝して凱旋。他の討伐軍(劉光世、喬仲福、韓世忠ら)も次々と賊を平定し、丁順・楊進は招撫司に投降した。高宗は諸将の功に応じて封賞した。
李綱、車駕の中原残留を説く
- 高宗は道君皇帝(徽宗)から届いた親書を李綱に示し、感慨を語る。李綱は捷報を機に「機を逸すべからず」と進言。
- 高宗が巡幸の可否を問うと、李綱は関中を上策、襄陽を次善、建康(金陵)を下策とし、中原に留まって将士を励ますべきと説く。高宗は元祐太后・六宮のみを東南へ送り、自らは中原に留まる意を示し、李綱の起草した詔を両京に掲げさせた(民心を慰撫し金軍の再侵に備える内容)。詔を読んだ両京の軍民は皆感涙した。
南遷派との対立、李綱の失脚
- 黄潜善は中原残留に反対し、金陵の堅固さと東南での国力涵養を説いて高宗を動かそうとする。高宗は一時南遷の詔を発しかけるが、李綱が光武帝・唐太宗の例を引き、西北を失えば中興はならぬと強く諫め、高宗は南陽行幸に改める。
- しかし黄潜善・汪伯彦は密かに東南遷幸の議を進めており、周囲は「丞相(李綱)もこれに従うべき」と促すが、李綱は自らの進退を賭けて反対する構えを崩さなかった。
河東経制司をめぐる混乱
- 河東経制使副の王燮・傅亮から、寄せ集めの兵では未訓練で勝算が薄く、陝西で正規兵を募って態勢を整えたい旨の上奏があった。李綱はこれを是とし、高宗も許可した。
- ところが程なく、東京留守の宗沢に傅亮の軍を統率させよとの命が下り、傅亮はこれに驚いて京師へ事情を訴え出た。