大宋中興通俗演義第十一回 岳飛、河北攻略の策を練る (岳飛計畫河北策)
汪黄の主戦論への抵抗
- 高宗即位後、李綱が国政を取り仕切り靖康期より秩序は保たれていたが、高宗は黄潜善・汪伯彦の言のみを信じていた。
- 宗沢はたびたび車駕の東京帰還を上奏し、高宗も一時は傾いたが、汪・黄が「太上皇の子で残るは陛下ただ一人、虎口に身を投じてはならぬ」「金陵は長江の天険があり守るに易い」と説き、高宗は再び東京還幸を思わなくなった。
岳飛の上表と左遷
- 東京留守の宗沢は武義郎岳飛と、高宗が自分たちの言を用いず和議・南遷に傾いていることを嘆く。
- 岳飛は「車駕の在る所すなわち辺境となる」との考えを述べ、宗沢と相談のうえ中原回復を求める上表文を作成、朝廷に奉じた。
- 表の趣旨は、金軍がまだ弱いと油断している今のうちに車駕を東京へ戻し、親征して中原を回復すべきというもの。
- 高宗はこれを丞相府に諮ったが、黄潜善らは「小官の分際で越権の言」として岳飛の官職剥奪・帰郷を奏上、高宗もこれを許した。
- 岳飛は下賜された金帛を配下の将士に分け与え、また宗沢に別れを告げる。宗沢は自らの上疏がことごとく奸臣に阻まれ憂憤で病を得たことを語り、岳飛の才を惜しみつつ再起を期して送り出した。岳飛は相州の実家に戻り母に孝養を尽くす。
金軍三路南侵と張所の招撫
- 建炎元年秋、金の右副元帥斡離不が病没。金は改めて黏沒喝・兀朮・婁室の三元帥に各四万、計十二万の兵を分けて河北・山東・陝西へ侵攻させた。
- 高宗は各路に募兵を命じ、張所を河北西路招撫使に任じて両河の忠義の士を集めさせようとした。
- 張所は北京(河北)に司を置くことを願い出たが、北京留守張益謙が「かえって混乱を招く」と反対。李綱がこれを弁護し、高宗は張所の議に従うことを決めた。
岳飛、張所のもとへ
- 張所は北行の途上、相州で謫居中の岳飛を招く。岳飛は母に別れを告げ張所に仕え、修武郎・閣門祗候・中軍統制に任じられた。旧部下の張憲・王貴らも次々と馳せ参じた。
- 酒宴の席で張所が岳飛の武勇と用兵の見識を問うと、岳飛は「勇より謀が肝要」と兵法を引いて答え、張所は深く感心する。
- さらに岳飛は、河北の地が汴京にとって手足のごとき要地であること、童貫が燕雲を得ながら険要を疎かにして実を失った過ちなどを説き、河北の要害を固めて汴京の藩屏とすべきと論じた。
- 張所はこの策に大いに満足し、岳飛を武経郎に昇進させ兵を分け与え、河北制置使王彦に従わせて共に河北招撫に向かわせた。