大宋中興通俗演義第七回 岳飛、家を辞し従軍に応じる (岳鵬舉辭家應募)

岳飛の出自と少年期

  • 相州湯陰の農家に生まれた岳飛(字は鵬挙)は、父・岳和が慈悲深く節倹な人物であった。生まれたとき鵬のような大鳥が室上を飛び鳴いたことから名付けられた。生後間もなく黄河が決壊した際、母に甕へ入れられて濁流を漂い、無事に岸へ着いたという逸話も伝わる。
  • 岳飛は寡黙で気節を重んじ、貧しいながらも学問に励み『左氏春秋』や孫呉の兵法を好んだ。十二歳で三百斤の弓を引く神力を備え、豪士・周同に弓を学ぶ。ある日の競射で周同を上回る腕前を示し、その技をすべて伝授された。

周同への恩義

  • 周同の死後、岳飛は朔望ごとにその墓へ詣で、酒肉を供えて泣き哭き、弓を三矢射て祭肉を墓の傍らに埋める習わしを続けた。父がその理由を問うと、岳飛は師恩に報いる気持ちと、亡き師の技量への感謝を語り、父は「この子あれば後顧の憂いなし」と感じ入った。

応募と劉浩への謁見

  • 靖康の混乱で胡馬が跋扈し宋兵が萎縮する中、郷里の壮士たちが岳飛を頭目に山賊に入ろうと誘うが、岳飛は「男子たるもの盗人に堕してよいものか」と拒み、背に「尽忠報国」の四字を刺青して志を示した。
  • 父の死後、老母と妻李氏を残し、康王の募兵に応じて劉浩のもとへ出頭。堂々たる風采と志の高さに劉浩は感嘆し、翌日康王へ推挙することを約束した。

賊首吉倩の帰順

  • 康王に謁見した岳飛は磁州・相州境の賊討伐を命じられる。数十万を擁する賊首・吉倩の陣へわずか四騎で乗り込み、大義を説いて帰順を促す。抵抗した賊の一人を殴り倒すと吉倩以下三百八十余人が投降し、康王は大いに喜んで岳飛を承信郎に、吉倩を偏校に任じた。

黄河を渡っての進軍

  • 河北の諸軍が続々と大元帥府に集結し、康王は京師救援のため出兵する。黄河が未凍結で渡れぬと知った康王が天地河神に祈ると、たちまち河が凍結し全軍が渡ることができた。
  • 開德府では宗沢の軍と合流し、諸方から兵馬が続々参集する。

李固渡の金兵

  • 車駕が李固渡へ向かう途上、金兵が渡し場を扼していると知り、劉浩の推挙により岳飛が迎撃に向かうこととなった。岳飛は部将吉倩らに油断せぬよう命じ、迎え撃つ準備を整えた。