陳書卷三十五 列傳第二十九 留異
東陽長山の人で、代々郡の著姓。侯景の乱に乗じて東陽を掌握し、侯景・王僧辯・陳と、その時々の強者に応じて立場を変える反覆常ない態度を取り続けた。世祖は長女豊安公主を異の子に嫁がせて懐柔したが、なお王琳と通じたため沈恪の討伐を受けてこれを破り、その後侯安都の討伐を受けて桃支嶺に逃れ、陳寳應のもとへ落ち延びた末に捕らえられ、建康の市で斬られた。
蜂起から滅亡まで
- 東陽長山の人、代々郡の著姓であった。異は物腰が巧みで言葉遣いも穏やかで郷里の実力者となり、無頼の若者を多く集め貧賎な者を侮ったため、地方官は皆これを憂えた。梁代に蟹浦戍主となり、晋安・安固の二県令を歴任した。侯景の乱で異は郷里に戻り兵士を募った。東陽郡丞が異と不和であったため、異は兵を率いてこれとその妻子を誅殺した。太守沈廵が台の援護を放棄し郡を異に譲ると、異は兄の子超に郡事を監督させて自らは兵を率い沈廵に従って都に赴いた。京城が陥落すると異は臨城公蕭大連に従い、大連は異を司馬に任じて軍事を委ねた。しかし異は残暴で遠謀がなく、大連配下の軍主を督責したり側近を用いて私的に威権を振るったりしたため、皆これを患った。
- 侯景の将軍宋子仙が浙江を渡ると、異は郷里に逃げ帰り、まもなくその衆を率いて子仙に降った。当時大連もまた東陽の信安嶺を経て鄱陽に向かおうとしていたが、異は子仙の道案内をして大連を捕らえさせた。侯景は異を東陽太守に任じ、その妻子を人質にとった。景の行台劉神茂が義を起こして景に抗った際、異は表向き神茂に同調しつつ密かに景と通じていたため、神茂が敗れて誅されても異だけは免れた。
- 侯景平定の後、王僧辯は異に東陽の慰撫を命じ、異は郷里の者を糾合して険阻な地に拠り、その勢力は非常に盛んで州郡はこれを恐れた。元帝は異を信安令とした。荊州が陥落すると王僧辯は異を東陽太守とした。世祖が会稽を平定した頃、異は糧食を輸送する形をとりつつも実質は一郡を私物化し権勢を振るった。紹泰二年(556年)その協力の功により持節通直散騎常侍・信武将軍・縉州刺史・領東陽太守を除せられ永興県侯に封じられ邑五百戸を与えられた。その年、散騎常侍・信威将軍に遷り邑三百戸を増やされ、他はそのままであった。さらに世祖の長女豊安公主を異の第三子貞臣に嫁がせた。
- 永定二年(558年)異は使持節散騎常侍・都督南徐州諸軍事・平北将軍・南徐州刺史に召されたが、応じるのを引き延ばした。世祖即位後、都督縉州諸軍事・安南将軍・縉州刺史に改められ東陽太守を領した。異はしばしば長史王澌を使者として朝廷に遣わしたが、澌はいつも朝廷が弱体だと言うため異はこれを信じ、表向き臣節を示しながらも常に両端をかけ、王琳と鄱陽の信安嶺を通じて密かに使者を交わした。王琳もまた東陽に使者を遣わして守宰を任命した。琳が敗れると、世祖は左衛将軍沈恪を遣わして異に代えて郡を治めさせようとしたが、実際には兵を率いて異を襲わせた。異は下淮に出て抵抗し、恪はこれと戦って敗れ銭塘に退いた。異はそこで上表して謝罪した。当時朝廷軍はちょうど湘州・郢州の平定に当たっていたため、詔書を下して慰撫しつつ懐柔した。異もまた朝廷が最終的に自分を討つことを知り、下淮と建徳に兵を配して江路に備えた。
- 湘州が平定されると、世祖は詔を下し、異が長年にわたり武具を整え兵を蓄え、番禺(南越)と密かに通じていたことを官爵をもって懐柔してもなお改めず、王琳が中流を窃拠した際にも呼応し、子を人質に送りながら再び兵を擁して反乱を企て、江口に軍を置き下淮を厳戒して詔命を拒んだことなどを数え挙げ、使持節都督南徐州諸軍事・征北将軍・司空・南徐州刺史・桂陽郡開国公侯安都を遣わして討伐させ、罪は異一身にとどめ他は問わないとした。
- 異は官軍が銭塘江を遡って来ると思っていたが、安都は会稽・諸暨から陸路を進んで襲った。異は兵の到来を聞いて大いに恐れ、郡を棄てて桃支嶺に逃れ、嶺口に柵を立てて自らを固めた。翌年春、安都はその柵を大破し、異は第二子忠臣とともに陳寳應のもとへ逃れ、残党の男女数千人が捕虜となった。天嘉五年(564年)陳寳應が平定されると、異もあわせて捕らえられ都に送られ建康の市で斬られた。子姪と同党は老若を問わず皆誅殺されたが、第三子貞臣だけは公主を娶っていたため免れた。