陳書卷三十五 列傳第二十九 熊曇朗

豫章南昌の人で、代々郡の著姓。侯景の乱に乗じて豊城県に拠り群盗を集めて勢力を築き、表面上は梁・陳に従いながら周辺の勢力を欺いて武具・人馬を奪う策謀を重ねた。周文育の軍と会したがその劣勢に乗じて文育を殺害し王琳に呼応、新淦県に城を築いて抗した。王琳が敗走すると党与は離反し、周廸に城を攻め落とされ、村へ逃げ込んだところを村人に斬られて滅んだ。

年表(1件)
  • 紹泰二年556年南川の豪帥として游騎将軍を授けられ、のち桂州刺史資・領豊城令となる

蜂起から滅亡まで

  • 豫章南昌の人、代々郡の著姓であった。曇朗は素行が定まらず、膂力があり容貌も甚だ立派であった。侯景の乱に乗じて次第に若者を集め豊城県に拠って柵を築き、猛々しい盗賊の多くがこれに従った。梁の元帝は曇朗を巴山太守とした。荊州が陥落すると曇朗の兵力はいよいよ強まり、隣県を掠め居民を捕らえて山谷の中で売買し、最大の禍患となった。
  • 侯瑱が豫章を鎮めると、曇朗は表面上服従しつつ密かに瑱を図った。侯方児が瑱に反した際には曇朗がその謀主となった。瑱が敗れると曇朗は瑱の馬・武具・子女を多く獲得した。蕭勃が嶺を越えた際、欧陽頠が前軍となったが、曇朗は頠を騙して共に巴山に赴き黄法氍を襲うと持ちかけ、一方で法氍にも共に頠を破ろうと通報し、事が成れば馬・武具を分け与えると約束した。出兵して頠と犄角の勢で進む段になると、曇朗は「余孝頃が奇襲を仕掛けようとしている、こちらの武具が不足しているので分けてほしい」と頠を欺き、頠は甲三百領を送って助けた。城下に至って戦端が開かれると、曇朗は偽って法氍側に敗走したふりをして頠を誘い出し、頠は後詰めを失って狼狽して退却し、曇朗はその馬・武具を奪って帰った。
  • 当時、巴山の陳定もまた兵を擁して砦を構えていた。曇朗は偽って娘を陳定の子に嫁がせようとし、さらに定に「周廸や余孝頃はこの婚姻を望んでいない、必ず強兵を率いて迎えに来るべきだ」と唆した。定が精鋭三百と土豪二十人を遣って迎えさせると、曇朗はこれを捕らえて馬・武具を奪い、身代金を要求した。
  • 紹泰二年(556年)、曇朗は南川の豪帥として慣例により游騎将軍を授けられ、まもなく持節飈猛将軍・桂州刺史資・領豊城令となり、宜新・豫章二郡太守を歴任した。王琳が李孝欽らを遣って余孝頃とともに臨川で周廸を攻めさせた際、曇朗は麾下を率いて救援に赴いた。その功により持節通直散騎常侍・寧遠将軍を除せられ、永化県侯に封じられ邑千戸と鼓吹一部を賜った。さらに王琳への抵抗の功により平西将軍・開府儀同三司を授けられ、他の官はそのままであった。
  • 周文育が豫章で余孝勱を攻めた際、曇朗は出兵して会したが、文育が劣勢になると曇朗は文育を殺して王琳に呼応した(詳細は文育伝に記す)。これにより文育配下の諸将をことごとく捕らえ、新淦県に拠り江に沿って城を築いた。王琳が東下すると、世祖は南川の兵を徴発し、江州刺史周廸・高州刺史黄法氍がこれに応じて赴こうとしたが、曇朗は城に拠り艦船を並べて廸らの進路を断ち、法氍と対峙した。世祖は南方の軍を率いて城を包囲させ、曇朗と王琳との連絡を絶たせた。
  • 王琳が敗走すると曇朗の党与は離反し、周廸が城を攻め落として男女一万余口を捕虜とした。曇朗は村へ逃げ込んだが村人に斬られ、首は京師に送られ朱雀観に懸けられた。これによりその党族はことごとく捕らえられ、老若を問わず市に晒された。