陳書卷三十四 列傳第二十八 阮卓
阮卓、陳留尉氏の人。至孝の性質で知られ、侯景の乱の中で父の喪柩を京師に運び戻した逸話を持つ。詩才に優れ、交阯への招撫使や隋への聘使副使を務めるなど廉潔・実務両面で評価された。禎明三年(589年)に隋に入る途上、父の没した江州で病を得て五十九歳で没した。
出自と経歴
- 阮卓は陳留尉氏の人。祖の詮は梁の散騎侍郎、父の問道は梁の寧遠岳陽王府記室参軍。卓は幼くして聡敏で経籍に篤志し、談論に優れ、とりわけ五言詩を得意とし、至孝の性質であった。父が岳陽王に随って江州に出鎮した際に病死すると、卓は時に年十五、都から急ぎ駆けつけ何日も水も喉を通らなかった。侯景の乱で道が阻絶していたが、卓は険難を冒して喪柩を京師に運び戻し、途中で賊に遭遇した際、卓は憔悴した姿で号泣して事情を訴え、賊も哀れんで殺さず護送して境を出させた。彭蠡湖を渡る際、中流で突風に遭い船が沈みかけたこと数度に及んだが、卓が天を仰いで悲しみ号泣すると風はまもなく止み、人々は皆孝心が天に通じたのだと考えた。
- 世祖即位の後、軽車鄱陽王府外兵参軍に除せられた。天嘉元年(560年)雲麾新安王府記室参軍に転じ、府に従って翌右記室・帯撰史著士に転じ、鄱陽王中衛府録事に遷り、晋安王府記室・著士如故に転じた。欧陽紇平定の後、交阯の夷獠がしばしば集まって寇掠を働いたため、卓は招撫の使者となることを奏請し、交阯を経て日南象郡に至った。この地には金翠・珠貝など珍しい産物が多く、歴代の使者は皆持ち帰っていたが、卓だけは身一つで帰り衣装以外何も持ち帰らなかったため、当時の評判はその廉潔さに感服した。衡陽王府中録事参軍に遷り、入朝して尚書祠部郎となり、始興王中衛府記室参軍に遷った。始興王叔陵が誅殺された際、後主は朝臣に「阮卓はもとより逆謀に与しなかった、特に表彰すべきだ」と語った。至徳元年(583年)入朝して徳教殿学士となり、まもなく通直散騎常侍を兼ね王話の隋への聘使に副使として従った。隋主はかねて卓の名を聞いており、河東の薛道衡・琅邪の顔之推らを遣わして卓と談宴・賦詩させ、贈り物と礼を厚くした。帰国後、招遠将軍・南海王府諮議参軍に除せられたが目の病により赴任せず、郷里に退いて亭宇を改築し山池と草木を整え、賔友を招いて詩酒を楽しんだ。禎明三年(589年)隋に入り、江州に至ったところで父の亡くなった地を思い出し、病を得て卒した。時に年五十九。
- 附:当時、武威の陰鏗(字は子堅、梁の左衛将軍子春の子)がいた。幼くして聡慧で、五歳で詩賦を日に千言暗誦し、成長すると史伝を博く渉猟し、とりわけ五言詩に優れ当時重んじられた。梁の湘東王法曹参軍を出仕の初めとした。寒い時期、鏗が賔友と宴飲していたとき、酒を注ぐ者を見て杯と炙り肉を回して与えたところ、満座が皆笑ったが、鏗は「我々は終日酒を酌み交わしているのに酌をする者はその味を知らない、それは人情に悖る」と言った。侯景の乱で鏗は賊に捕らえられたが、ある者に救われ免れた。理由を尋ねると、それは以前に酒を回して与えた者であった。天嘉中に始興王府中録事参軍となった。世祖がかつて群臣を宴して賦詩させた際、徐陵が鏗のことを世祖に伝え、その日のうちに鏗を宴に召し「新成安楽宮」を賦させたところ、鏗は筆を執ってたちどころに仕上げ、世祖は大いに感嘆した。累遷して招遠将軍・晋陵太守・員外散騎常侍となり、まもなく卒した。集三巻が世に行われた。
史論
- 史臣は言う。文学とは人倫の基づくところであろう、それゆえ君子は衆庶と異なる。昔、孔子が四科を論じた際、徳行に始まり文学に終わるとしたが、これは聖人もまた文学を貴んだということである。杜之偉らのような者は、よき時運に恵まれてそれぞれの才を発揮したが、なかでも之偉はとりわけ美名を著した。