出自と経歴
- 字は元明、琅邪臨沂の人。幼くして孤児となり貧しかったが学を好み文才があった。梁の邵陵王の兼記室参軍を出仕の初めとした。東宮学士の庾信が府中に使いした際、王が晃に応対させると、信は彼が若いのを軽んじて「この府の兼記室は幾人いるのか」と言ったが、晃は「宮中の学士より当然少ないでしょう」と答え、当時これを名答とした。侯景の乱で西の荊州に奔り、承聖初め中書侍郎を除せられた。当時、杜龕が呉興太守となり武勇のみを好み、その部下には軽薄で危険な若者が多かったため、元帝はこれを憂え晃に龕の文書を管理させ、龕には「卿はまだ若い、顔晃は文学の士だからこれを補佐に用いよ、事に当たって必ず相談せよ」と勅した。龕が誅されると晃は世祖に帰し、世祖は書記の任を委ね厚く遇した。宣毅府中録事兼記室参軍に除せられた。永定二年(558年)、高祖が大荘厳寺に幸したその夜甘露が降り、晃は『甘露頌』を献じ、その詞義は該博で高祖はこれを奇とした。天嘉初め員外散騎常侍・兼中書舎人に遷り詔誥を掌った。三年(562年)に卒した。時に年五十三。詔して司農卿を贈り、諡は貞子、墓地を賜った。晃の家は代々寒門で外戚の助けもなかったが、節操堅く身を修めて当世に知られ、その表奏・詔誥は筆を執ればたちどころに成り事理を得て気品があった。集二十巻がある。