出自と経歴
- 王元規は字を正範といい、太原晋陽の人。祖の道宝は斉の員外散騎常侍・晋安郡守、父の瑋は梁の武陵王府中記室参軍。元規は八歳で父を失い、兄弟三人で母とともに舅の家に身を寄せ臨海郡に赴いた。時に年十二、郡の豪族劉瑱が巨万の資財をもって娘を娶らせようとした。元規の母は兄弟が幼弱であることから有力な後ろ盾を結ぼうとしたが、元規は泣いて「婚姻の縁を結ぶには相手を誤らないことが古人の重んじたところ、どうして異郷で安逸を求め、身分の違う者と婚姻を結んでよいでしょうか」と訴え、母はその言葉に感じて思い止まった。
- 元規は孝行の性質で母に仕えることが甚だ謹み深く、朝晩片時も母の側を離れなかった。梁のとき山陰県で洪水があり住居が流された際、元規はただ一艘の小舟しか持たなかったが、とっさに母・妹・幼い姪を船に引き入れ自ら櫂を執って去り、自分の子ら三人は樹の梢に取り残した。水が退いた後、樹に残された子らも無事に救われ、当時の人々はその至孝を称えた。
- 元規は若くして学を好み、呉興の沈文阿に師事し、十八歳で『春秋左氏』『孝経』『論語』『喪服』に通じた。梁の中大通元年(529年)、詔して『春秋』を策問され高第を挙げられ、当時の名儒たちに称賛された。湘東王国左常侍を出仕の初めとし員外散騎侍郎に転じた。簡文帝が東宮にあったとき賓客に引かれ、講論のたびに厚遇された。中軍宣城王府記室参軍に除せられた。
- 侯景の乱では家族を連れて会稽に還った。天嘉中に始興王府功曹参軍・国子助教を除せられ、鎮東鄱陽王府記室参軍に転じ助教を領したまま務めた。後主が東宮にあったとき学士に引かれ、自ら『礼記』『左伝』『喪服』などの義を親しく授かり、手厚く賞賜された。国子祭酒に遷った。新安王伯固がかつて宮に入ったとき、ちょうど元規が講義をしようとしていたので執経を請い、時の評判では栄誉とされた。まもなく尚書祠部郎に除せられた。
- 梁代以来、『左氏』学を伝える諸儒はみな賈逵・服虔の義をもって杜預の説を難駁しており、その論点は凡そ百八十条に及んだが、元規はこれらを引証・分析して疑滞を残さず解いた。国家の吉凶大礼が議されるたびに参与した。母の喪により去職し、服喪を終えて鄱陽王府中録事参軍に除せられ、まもなく散騎侍郎に転じ、南平王府限内参軍に遷った。王が江州刺史となるとこれに従って赴任し、四方から学徒が遠路をいとわず道を請いに来て常に数十から百人に及んだ。禎明三年(589年)に隋に入り、秦王府東閣祭酒となり、年七十四で広陵にて卒した。著書に『春秋発題辞』および義記十一巻、『続経典大義』十四巻、『孝経義記』二巻、『左伝音』三巻、『礼記音』二巻がある。子の大業は聡敏で名を知られた。
- 附:当時、呉郡の陸慶は若くして学を好み、五経に遍く通じ、とりわけ『春秋左氏伝』に明るく、節操が非常に高かった。梁の武陵王国右常侍を出仕の初めとし、征西府墨曹行参軍を歴任し婁令に除せられた。梁末の喪乱に遭うと仏典に思いを潜め、経論を極めた。天嘉初め通直散騎侍郎に召されたが応じなかった。永陽王が呉郡太守となりその名を聞いて会いたいと望んだが、慶は病と称して固辞した。当時、同族の陸栄が郡の五官掾であり、慶がかつて彼を訪ねたことがあった。王はひそかに微服で栄の邸を訪れ壁に穴を開けて慶を観察し、栄に「陸慶の風貌は凝然として峻厳、測り知ることができない、厳君平や鄭子真も及ばないだろう」と語った。鄱陽王・晋安王がともに記室として召したが応じず、室を構えて隠棲し禅誦を事としたため、以後彼から経を伝授される者は少なかった。
史論
- 史臣は言う。身を磨き行いを励ますには必ず経術を先とし、国を建て家を興すこともこの道による。ゆえに王政はこれによって治まり、人倫はこれを得て序立つ。沈文阿らはそれぞれ経学を専らとし業を授けて、一代の大儒であった。文阿はさらに礼儀を草創しており、叔孫通の流れを汲む者というべきである。