陳書卷三十三 列傳第二十七 沈不害

出自と経歴

  • 字は孝和、呉興武康の人。祖の総は斉の尚書祠部郎、父の懿は梁の邵陵王参軍。不害は幼くして孤児となったが身を修めて学を好んだ。十四歳で国子生に召補され、明経で挙げられ、累遷して梁の太学博士、廬陵王府刑獄参軍・長沙王府咨議帯汝南令を歴任した。天嘉初め衡陽王府中記室参軍・兼嘉徳殿学士に除せられた。梁末の喪乱以来国学が立てられていないことを憂い、不害は上書して儒学の振興を訴えた。要旨は、人を立て国を建てるには儒を尊ぶことを第一とし民を教化するには教学を崇めるべきこと、梁の太清末年以来学問が凋落し洪儒碩学が散逸し礼楽が滅びたことを嘆き、庠序を建て公卿の子弟を皆学に入れ助教・博士に朝夕講義させるべきことを説いたものである。詔してこれを嘉し外に付して詳議させ、事に依って施行させた。また表を上げて楽章の改定を請い、詔して三朝楽歌八首、合わせて二十八曲を制作させ楽府で行わせた。
  • 五年、贛令に除せられ、入朝して尚書儀曹郎となり、国子博士に遷り羽林監を領し、勅により五礼を治め策文・諡議を掌った。太建中に仁武南康嗣王府長史・行丹陽郡事に除せられ、員外散騎常侍・光禄卿に転じ、まもなく戎昭将軍明威武陵王長史・行呉興郡事となり、まもなく通直散騎常侍・兼尚書左丞として入朝した。十二年(580年)に卒した。時に年六十三。
  • 不害は経術を治め文をよくし、多くの典籍を博く渉猟していたが家に書物を蔵さず、文章を作るたびに筆を執ればたちどころに成り、検索を要しなかった。僕射の汝南周弘正は常々「沈生はまさに聖人の意を体していると言えよう」と称した。著書に『治五礼儀』一百巻、文集十四巻がある。子の志道は字を崇基といい、若くして名を知られ、揚州主簿を出仕の初めとし、まもなく文林著士を兼ね、安東新蔡王記室参軍を歴任し、禎明三年(589年)に隋に入った。