出自と経歴
- 字は公文、呉郡塩官の人。祖の顕は斉の給事中、父の霸は梁の臨賀王府中兵参軍。衮は幼くして聡慧で京都に遊学し、国子助教劉文紹に三礼を受け、一、二年で大義をほぼ習得した。年十九、梁武帝の勅策で『孔子正言』ならびに『周礼』『礼記』の義を問われ高第で対策し、揚州祭酒従事史に除せられた。国子博士の宋懐方に『儀礼』の義を質したことがあり、懐方は北人で魏より『儀礼』『礼記疏』を携え秘蔵し伝授を惜しんでいたが、死に臨んで家人に「わが死後、戚生が来たら『儀礼』『礼記』の義本を彼に渡せ、来なければ屍とともに葬れ」と言い残したほど儒者として推重された。
- まもなく太学博士を兼ね、梁の簡文帝は東宮にあって衮を召して講論させた。ある宴集では玄儒の士に互いに質難させた後、中庶子徐摛に大義を問わせ劇談させたところ、摛は弁舌が縦横で並みいる者は気圧されたが、衮は精彩自若として対答が流れるようであり、簡文帝は深く感嘆した。まもなく員外散騎侍郎、さらに員外散騎常侍に遷った。
- 敬帝承制の下で江州長史となり、沈泰に従い南豫州を鎮めた。泰が北斉に奔る際に衮も同行を強いられたが、後に鄴から逃げ帰った。また程文季の北伐に従い呂梁の役で敗れ、衮は北周に没したが、久しくして帰国できた。国子助教を兼ね、中衛始興王府録事参軍に除せられた。太建十三年(581年)に卒した。時に年六十三。衮は梁代に『三礼義記』を撰したが、乱に遭い散逸し、『礼記義』四十巻のみが世に行われた。