陳書卷三十三 列傳第二十七 鄭灼

出自と経歴

  • 鄭灼は字を茂昭といい、東陽信安の人。祖の恵は梁の衡陽太守、父の季徽は通直散騎侍郎・建安令。灼は幼くして聡敏で儒学に志を励まし、若くして皇侃に師事した。梁の中大通五年(533年)に釈褐して奉朝請となり、累遷して員外散騎侍郎・給事中・安東臨川王府記室参軍、平西邵陵王府記室に転じた。簡文帝は東宮で経術を愛し灼を西省義学士に引いた。承聖中に通直散騎侍郎を除せられ国子博士を兼ね、まもなく威戎将軍・兼中書通事舎人となった。世祖の代には安東臨川・鎮北鄱陽二王府咨議参軍を歴任し、累遷して中散大夫となり本職のまま国子博士を兼ねたが拝命前の太建十三年(581年)に卒した。時に年六十八。
  • 灼は性精勤で三礼にとりわけ通じた。若い頃、夢の中で皇侃に出会い、侃が灼の口に唾を吐きかける夢を見た後、義理の理解がますます進んだという。家が貧しく義疏を昼夜書き写し、筆の穂先がすり減るたびに削って使い続けた。常に粗食で講義し、暑気あたりで苦しむときは瓜を心の上に載せて起き上がり誦読を続けた。その篤志はこのようであった。
  • 当時、晋陵の張崖・呉郡の陸詡・呉興の沈徳威・会稽の賀徳基が礼学をもって自任していた。
  • 張崖は同郡の劉文紹に三礼を伝授され、梁で王府中記室を歴任した。天嘉元年(560年)に尚書儀曹郎となり沈文阿の儀注を広め『五礼』を撰した。丹陽令・王府咨議参軍を出て、御史中丞宗元饒の表薦により国子博士となった。
  • 陸詡は若くして崔霊恩の三礼義宗を学んだ。梁の世、百済国が礼を講ずる博士の派遣を求めた際、詔して詡を行かせた。帰国後給事中・定陽令を除せられ、天嘉初め始興王伯茂の侍読となり、尚書祠部郎中に遷った。
  • 沈徳威は字を懐遠といい、梁の太清末に天目山に隠れて室を築いて住み、乱離の中でも篤学に倦むことがなく経業を治めた。天嘉元年(560年)に都に召し出され太子の礼伝の侍講となり、太学博士に授けられ国子助教に転じた。学校から私宅に戻るたびに講授し、道俗の受業者は数十から百人に及んだ。太常丞・兼五礼学士に遷り、尚書儀曹郎、のち祠部郎となった。母の喪により去職し、禎明三年(589年)に隋に入り秦王府主簿に至り、年五十五で卒した。
  • 賀徳基は字を承業といい、代々礼学を伝え、祖の文発・父の淹はともに梁の祠部郎として名を馳せた。徳基は若くして京邑に遊学し何年も帰らず衣類・費用が尽き、古びた服を恥じて厳冬にも夾襦袴のみを着ていた。あるとき白馬寺の前で容姿の美しい婦人に出会い、寺門に招かれて白い綸巾を贈られ、「あなたはやがて重器となる、貧寒ゆえこれを贈る」と言われたが、名を問うても答えず立ち去った。徳基は『礼記』に精通すると称され、教授を伝えて累遷し尚書祠部郎となった。徳基は高官には至らなかったが、三世にわたる儒学の家で代々祠部を務めたことが当時称賛された。