陳書卷三十三 列傳第二十七 沈洙

出自と経歴

  • 字は弘道、呉興武康の人。祖の休稚は梁の余杭令、父の山卿は梁の国子博士・中散大夫。洙は若くして品行方正で学を好み、みだりに交遊せず、三礼・『春秋左氏伝』を治め、五経の章句・諸子史書に精通し問われて答えられぬことがなかった。梁の湘東王国左常侍を出仕の初めとし、中軍宣城王限内参軍に転じ、臨賀王記室参軍を板授され、尚書祠部郎中に遷った(当時二十余歳)。大同年間、学者の多くが文史を渉猟して章句を軽んじる中、洙は独り経術に思いを積み、呉郡の朱异・会稽の賀琛に高く評価され、異・琛が士林館で『制旨義』を講ずる際には常に洙を都講とした。
  • 侯景の乱で洙は臨安に逃れ、当時そこにいた世祖が親しく師事した。高祖が入朝して政を輔けると国子博士に除せられ、沈文阿とともに儀礼を掌った。高祖受禅の後、員外散騎常侍を加えられ、揚州別駕従事史・大匠卿を歴任した。
  • 「測囚の法」をめぐる議論に参与した。梁代の旧律では被疑者を杖で締め上げて自白を迫る「測」の法は一日一回、晡の刻から二更まで行われていたが、比部郎の范泉が律令を刪定するにあたり、旧法は時間が長すぎて人の堪えるところでないとして、一日二回・時間短縮の新制を定めた。廷尉はこれを寛に過ぎるとして八座丞郎および祭酒孔奐・沈洙ら五名を尚書省に集め詳議させた。廷尉監沈仲由の報告によれば、新制施行後の事例として、寿羽児(殺人罪、限度まで測しても不服)、劉磊渇ら八人(盗馬・偷仗の罪、限度まで測しても不服)、劉道朔(盗みの罪、二日の測で自白)、陳法満(収賄の罪、測に至る前に自白)などがあった。尚書の周弘正は昼夜で測の刻数を均等にすべきだとして范泉の新制寄りの意見を述べ、舎人の盛権も寛猛の均衡を説いて典法官による更なる検討を提案した。沈洙は昼間の漏刻を用いて計時し、四時(季節)の長短を勘案して朝夕おのおの十七刻とすること(旧来の漏よりも四刻多く、冬至の今漏に比べれば五刻多くなる)を提案し、范泉の旧制に依るのがよいと結論した。高宗は「沈長史の議は中を得ている、さらに広く議すべし」と述べ、左丞宗元饒は「沈の議は范泉の議と根本において異ならず、ただ四時の刻数を均一にしようとするものだ」と評し、これに基づき刪定曹が前制を改め、高宗はこれを施行させた。洙は太建元年(569年)に卒した。時に年五十二。