陳書卷三十三 列傳第二十七 沈文阿

儒林概観

  • 儒者はもともと古の六学によって人を教えた。六学は先聖が天道を明らかにし人倫を正して治世を成した法である。秦の始皇帝の焚書坑儒によって六学は絶えたが、漢の武帝が五経博士を立て弟子員を置き、科挙で官禄を与えたため経術を修めた者が多く出た。魏晋以降は儒教が衰え、公卿士庶で経業に通じる者は稀となった。宋斉の間に国学が時に開かれ、梁の武帝は五館を開き国学を建てて五経それぞれに助教を置き、みずから釈奠に臨み胄子を試すなど、一代の盛事であった。
  • 陳の高祖は前代の離乱の後を承け、衣冠は尽く滅び寇賊が未だ平らかでなかったため学問を勧める余裕がなかった。世祖以降ようやく学官を置いたが、成業する者は少なかった。今ここに採録するのは、いわば梁の遺儒たちである。

出自と経歴

  • 字は国衛、呉興武康の人。父の峻は儒学で梁代に聞こえ、桂州刺史を授けられたが赴任しなかった。文阿は性剛強で膂力があり、若くして父の学業を受け章句を研精した。祖舅の太史叔明、舅の王慧興がともに経術に通じ、文阿はその学を伝え、さらに先儒の異同を広く採って自ら義疏を作り、三礼・三伝を治めた。孝廉に察挙され、梁の臨川王国侍郎から累遷して国子助教・五経博士を兼ね、簡文帝が東宮にあったとき学士に引かれ厚遇された。簡文帝が『長春義記』を撰した際、多く文阿に異聞を集めさせて内容を広げさせた。
  • 侯景の乱では簡文帝の命で別に士卒を募って京師の救援に赴かせた。城が陥落すると張嵊とともに呉興を保ったが、嵊が敗れると文阿は山野に逃れた。景の軍が急いで探索したため、文阿は追い詰められて木に登り首をくくったが、親族に助けられて自ら身を投げ左腕を折った。景の乱が平定されると、高祖は文阿を郷里の縁で原郷令とし江陰郡を監させた。紹泰元年(555年)に入朝して国子博士となり、まもなく歩兵校尉を兼ね儀礼を掌った。泰清の乱以来、台閣の旧制は失われていたが、文阿の父峻は梁武帝の代に朝儀を掌ったことがあり遺稿を残していたため、礼度の斟酌裁定はすべて文阿の手による。
  • 高祖が禅譲を受けると、文阿は官を棄てて武康に帰った。高祖は激怒し使者を遣わして誅殺させようとしたが、文阿の同族の沈恪が郡のために赦免を請い、文阿は自ら面縛され首に鎖をつけて高祖の前に至った。高祖はこれを見て笑い「腐れ儒者め、何をしていたのか」と言って赦した。
  • 高祖崩御の際、文阿は尚書左丞徐陵・中書舎人劉師知らと大行皇帝の霊座・侍衛・衣服の制を議した(詳細は師知伝に記す)。世祖が即位し廟に謁する日取りを定めるにあたり、尚書右丞庾持が詔を奉じ博士にその礼を議させると、文阿は上議した。要旨は、周代の成王の喪の故事を引き、天下に主あることを示すべきこと、皇帝は廟に拝した後は正寝に退いて群臣の政を聴くべきこと、周礼の贄玉の制度や漢以来の礼制の変遷を踏まえ、現在は坐って璧を献ずる薦璧の儀のみを行い、賀酒の礼は行うべきでないと論じたもので、詔してこれを施行させた。まもなく通直散騎常侍・兼国子博士に遷り羽林監を領し、東宮で『孝経』『論語』を講じた。天嘉四年(563年)に卒した。時に年六十一。詔して廷尉卿を贈られた。文阿の撰した『儀礼』八十余巻、『経典大義』十八巻はともに世に行われ、諸儒の多くがその学を伝えた。