陳書卷三十一 列傳第二十五 任忠

任忠、字は奉誠、小名は蠻奴、汝陰の人。微賤の出から武勇で身を立て、太建の北伐で軍功を重ねた陳末の将軍。禎明三年、隋軍侵攻の際に台城防衛を委ねられながら隋将韓擒虎に降ってその軍を城内へ引き入れ、陳滅亡の直接の契機を作った人物として陳書の史論に非難されている(?-隋、年七十七)。

年表(3件)
  • 太建五年北伐の西道軍を率い合肥・霍州を攻略する
  • 太建十二年歴陽で周将王延貴を大破し生擒する
  • 禎明三年隋将韓擒虎に降り、その軍を台城に引き入れる

出自と初期の武功

  • 任忠、字は奉誠、小名は蠻奴、汝陰の人。少くして孤独微賤で郷党に相手にされなかったが、成長するにつれ譎詭で多計略、膂力に優れ騎射を善くし州里の少年に慕われた。梁の鄱陽王蕭範が合州刺史となりその名を聞いて左右に置いた。侯景の乱で忠は郷党数百人を率い晋熙太守梅伯龍に従い侯景将王貴顯を寿春に討ち、土人胡通の反乱を主帥梅思立とともに討平した。範の世子嗣に従い京城救援に赴いたが陥落し晋熙に戍った。侯景平定後、蕩寇将軍。王琳が蕭荘を立てた際、忠を巴陵太守とした。
  • 琳が敗れて朝に還り明毅将軍・安湘太守に遷り、侯瑱に従い巴湘を討ち豫寧太守・衡陽内史に累遷した。華皎の挙兵に忠も謀に与ったが、皎平定後、高宗は忠が先に密啓を朝廷にしていたことから咎めなかった。

北伐と歴任

  • 太建初め、章昭達に従い欧陽紇を広州に討った功で直閤将軍、武毅将軍・廬陵内史に遷り、任期満了後、右軍将軍に入る。五年、衆軍北伐に忠は西道を率い斉の歴陽王高景安を大峴で撃走、東関に逐奔し東西二城を克し、蘄・譙を進軍し攻略、合肥を襲いその郛を陥し霍州を克した功で員外散騎常侍・安復県侯・邑五百戸を授けられた。呂梁の喪師の際、忠は全軍で還った。
  • 寿陽新蔡霍州縁淮衆軍の都督を詔せられ寧遠将軍・霍州刺史に進号、左衛将軍に入り、十一年、北討前軍事を加え平北将軍に進号し歩騎を率い秦郡に赴いた。十二年、使持節散騎常侍・都督南豫州諸軍事・平南将軍・南豫州刺史、邑并せて一千五百戸に増、歩騎を率い歴陽に赴くと周は王延貴を援に遣わしたが忠は大破し延貴を生擒した。
  • 後主嗣位後、鎮南将軍に進号し鼓吹一部を給され、領軍将軍に入り侍中を加えられ、梁信郡公・邑三千戸に改封、呉興内史に出て秩中二千石を加えられた。

陳滅亡と降伏

  • 隋兵済江の際、忠は呉興から朱雀門に屯軍した。後主が蕭摩訶以下を内殿に召し方策を定めた際、忠は「兵家は客主で勢いが異なると称する、客は速戦を貴び主は持重を貴ぶ、兵を益し宮城を堅守し、水軍を分けて南豫州・京口に向かわせ寇の糧道を断ち、春の水嵩を待って周羅睺らの衆軍が上流から必ず赴援する、これぞ良計」と献策したが、衆議は一致せず出戦に至り敗れた。
  • 忠は台に馳せ入り後主に敗状を告げ「陛下はただ舟檝を備え上流の衆軍に合流なさい、臣は死をもって奉衛します」と啓し、後主はこれを信じ忠に部分(配備)を出させたが、忠は「臣が処分し終えたらすぐ奉迎します」と言いながら久しく戻らず、後主が宮人に装束させて待つ間、隋将韓擒虎が新林から進軍して来た。忠は数騎を率い石子崗へ行き擒虎に降り、その軍を引き入れて南掖門より台城に入城させた。
  • 台城陥落、その年入長安、隋の開府儀同三司を授けられ卒した。時に年七十七。子の幼武は儀同三司に至った。
  • 当時、沈客卿という者がいた。呉興武康の人で性は便佞忍酷、中書舎人として異端を立て百姓を刻削することを事とし、これにより自ら進んだ。施文慶という者もいた。呉興烏程の人で微賤より起こり吏用があり、後主に主書に抜擢され中書舎人に遷り、俄かに湘州刺史に擢されたが赴任前に隋軍来伐、文慶と客卿は機密を掌り外の表啓もすべて彼らの手を経て奏された。文慶は湘州重鎮に赴くことを喜び早く赴任したいと望み、客卿と表裏となって隋軍の情報を抑え奏上せず、後主はこれを知らぬまま無備のうちに敗国に至った。これは二人の罪であり、隋軍入城後、二人は闕前で戮された。