陳書卷二十七 列傳第二十一 姚察

姚察、字は伯審。呉興武康の人。幼くして至孝で博学、梁・陳・隋の三代に仕え、著作郎として梁陳二代の史書編纂に携わった学者官僚。清廉を貫き贈り物を一切受けず、後主・隋文帝双方から学徳を高く評価された。大業二年、東都洛陽で七十四歳で没し、未完の梁陳二史編纂は子の姚思廉に託された。

年表(8件)

出自と至孝の性

  • 姚察、字は伯審。呉興武康の人。九世祖の姚信は呉の太常卿として江左に名を知られた。察は幼くして至性を持ち、親に事えて孝で聞こえた。六歳で万余言を暗誦し、成長しても博弈雑戯に心を動かさず、夜を日に継いで勤苦厲精し、十二歳で文を綴った。
  • 父の姚僧坦は名医として知られ、梁武帝の代から二宮(皇帝・皇太子)の厚遇を受け、賜り物はすべて察兄弟の遊学の資に回されたが、察はこれを図書の蓄積に充て、見聞を日々広めた。十三歳の頃、簡文帝が東宮で文義を盛んに興し、察を宣猷堂の講論に招き入れ難問に応じさせ、儒者に称賛された。簡文帝の嗣位後はさらに厚く遇された。
  • 南海王国左常侍兼司文侍郎から起家し、南郡王行参軍兼尚書駕部郎に除せられる。梁の喪乱に遭い金陵で両親とともに郷里に還った際、東土は兵荒により人々が飢えて相食むほどで糴(米の購入)もままならなかったが、察の一家は野菜を採って自給し、供養の資糧を求めて艱難を極めながらも常に途切れさせず、自らの取り分を減らして弟妹や故旧の困窮者に分け与え、自分は藜藿のみで過ごした。乱離の間にあってなお篤学を絶やさなかった。

梁末の出仕と梁陳二史の編纂

  • 梁元帝が荊州で即位すると、父に随行して西台に赴き、元帝は察を原郷令に任じた。当時邑境は蕭条とし流亡が絶えなかったが、察は戦役を軽くし耕作を勧め、戸口は殷盛に至り今に至るまで称えられているという。中書侍郎領著作の杜之偉が察を深く見込み、著作の佐官に任じ史の編纂に当たらせた。永定初年、始興王府功曹参軍を拝し、嘉徳殿学士に補せられ、中衛儀同始興王府記室参軍に転じる。吏部尚書徐陵が著作を領した際、再び史の佐官に招かれ、陵が官を譲り致仕する際の上表もみな察に作らせ、陵は「私では及ばない」と嘆じた。
  • 太建初年、宣明殿学士に補せられ散騎侍郎左通直、まもなく通直散騎常侍を兼ね北周への使者となった。江左の耆旧で関右に先に赴いていた者たちは皆その名声を慕った。沛国の劉臻は公館で漢書の疑事十余条を質し、察はいずれも経拠を挙げて剖析して見せ、劉臻は「名の下に虚士なし」と親しい者に語った。使者の道中の見聞をまとめた『西聘道里記』を著した。帰国後、東宮学士に補せられ、当時の済陽の江総、呉国の顧野王、陸瓊の従弟陸瑜、河南の褚玠、北地の傅縡らとともに才学の美をもって東宮に朝夕侍り、察の言論・製述はいずれも一同に重んじられ、皇太子から特に厚遇された。宮中の文書はすべて察に起草させ、また野王としばしば互いに策問を出させ、常に称賛を得た。
  • 尚書祠部侍郎に遷る。この職は郊廟の祭祀を司り、魏の王肅が天地祭祀に宮県の楽・八佾の舞を奏することを奏した先例があったが、梁武帝は「事人の礼は繁く事神の礼は簡素であるべき」として宮県を用いず、陳初もこれを踏襲していた。高宗が備楽を整えようとした際、有司は梁武帝の措置を「非」とする議に付和したが、察一人は経籍を博く引いて梁の旧楽を是とする独自の議を立て、当時の人々を驚かせた。僕射徐陵もこれを容れて議を改めた。時流に迎合しない性格はこの類のことが多かった。
  • 宣恵宜都王中録事参軍を拝し東宮学士を帯び、仁威淮南王・平南建安王の二府諮議参軍を歴任。母の喪により去職したが戎昭将軍として起用され梁史撰修の任を固辞したが許されなかった。後主纂業後、東宮通事舎人兼将軍知撰史はそのまま、優冊・諡議などの文筆をも専管するよう勅された。

至徳年間の重用と篤い孝行

  • 至徳元年、中書侍郎に除し太子僕に転じるがそれ以外はそのまま。梁の末に父の僧坦が長安に入って以来、察は蔬食布衣で音楽を聞かなかったが、北周への聘使が江南に到った際に父の訃報に接した。母の韋氏の喪も明けたばかりであった察を後主は羸瘠を案じ、中書舎人司馬申を邸に遣わして哀を発させつつ、悲しみを抑えるよう諭させた。さらに使者を遣わし「哀毀が礼を過ぎることを憂う、卿は一身に宗家の祭祀を託されている、毀に過ぎて命を損なうことは聖教の許さぬところだ、自ら遣り繰りして礼制を守るように」と誡諭した。
  • まもなく忠毅将軍を兼ね東宮通事舎人に起用されたが、察は喪に服し終えることを望みしばしば辞退の表を上げたが許されなかった。表の中で「私門は禍を重ね殃罰に遭い、命を偸んで情礼を尽くそうとしたが病がちで、朝恩をこうむり纓紱を賜るのはかえって慙愧に堪えない」と述べた。詔答では「卿の行いは深く純である、理と情を思えば喪に服させたいが、宮中の要務が繁く、これ以上の辞退は許さない」とされた。まもなく著作郎事を知るよう勅され、服喪明けに給事黄門侍郎領著作に除せられた。
  • 察は喪服・斎戒を長く続けた結果、気疾を患った。後主が引見した際、その痩せ衰えた様に心を動かされ「朝廷は卿を惜しむ、卿も自らを惜しんでほしい」と語り、長斎を止めるよう促し、度支尚書王瑗を遣わして重ねて諭させ、手勅で夕食を摂るよう勧めた。察はこの勅に従いつつも従来の誓いを守り続けた。秘書監領著作を授かるも辞退の上表を重ね、いずれも許されなかった。
  • 秘書省で書物の大幅な校訂を行い、『中書表集』の撰上を奏した。散騎常侍を拝し、まもなく度支尚書、一月余りで吏部尚書に遷り著作はそのまま。姓氏の由来、官職・姻戚の興衰について、挙げれば漏らすところがないほど博識であった。人物鑑識の高さも重んじられた。吏部尚書蔡徵が中書令に移る際、後主が後任を選ぶにあたり尚書令江総らが揃って察を推薦すると、後主は「姚察は学芸に優れるだけでなく操行も清く、選官の任にふさわしい」と詔答し、自ら草した詔を察に示した。察は固く辞退したが、後主は「毛玠の雅量、盧毓の心の正しさ、王蘊の銓量の的確さ、山濤の推挙の的中はいずれも卿に兼ね備わっている」と説いて用いた。
  • 察は要職に在りながら清潔を極め、俸禄以外の贈り物は一切受けなかった。ある門生が薄礼として南布一端・花綀一匹を贈った際、察は「私が着るのは麻布と蒲練のみで、この品は無用だ。厚意には及ばぬので受け取れない」と断り、なおも受納を望んだ相手を厳しく退けたため、以後贈り物を持ち込む者はいなくなった。

入隋後と最期

  • 陳滅亡後、隋に入り開皇九年秘書丞に任じ、勅により梁陳二代の史を撰することとなり、朱華閣で長く参内した。文帝は察の蔬食を知り、別の日に独り内殿に召して果菜を賜り、朝臣に「姚察の学行は今並ぶ者がないと聞く、私が陳を平らげて得たのはこの一人だけだ」と語った。開皇十三年、北絳郡公を襲封。北周への聘使の折に父僧坦と再会し、別れの際に絶息して蘇生した経緯があり、この時の襲封に際してもいっそう悲感したという。
  • 幼い頃、鍾山の明慶寺で尚禅師から菩薩戒を受け、陳での俸禄をすべて寺の造営に捨て、禅師のために碑文を撰した。梁の国子祭酒蕭子雲がこの寺の禅斎に題した詩を見て感慨に堪えず、その韻を用いて詠じた。継母杜氏の喪に服す間、白鳩が戸口に巣を作るという瑞事があった。仁寿二年、詔により「学を彊め問を待ち、群典を極め、修身立徳、白首に至るまで変わらぬ」と称えられ、哀疚の中にあっても情理を奪って員外散騎常侍を授けられ、封はそのまま。
  • 晋王(後の煬帝)の侍読を命じられ、東宮でしばしば召見され文籍を訪ねられた。煬帝即位後、太子内舎人を授かりそれ以外はそのまま。車駕の巡幸に常に侍従し、衣冠の改定・朝式の整理に際しても切問近対の任にあったのは察一人であった。年七十四、大業二年東都で没した。
  • 遺命では薄葬を命じ「わが家は代々素士であり定まった作法がある、法服で身を包み布のみを用いよ。松板の薄棺で身が入るだけの大きさとし、土を周らせるだけでよい、葬送は鹿車一台で旧塋の北に送れ」と述べた。さらに「梁の世、十四歳で鍾山の明慶寺で菩薩戒を受けて以来、深く苦空の理を悟ってきたが、山寺に留まり続けることはできず、陳に仕えて以来、名流に伍する栄誉と時主の恩遇を受け高位に至った、入朝以来もさらに恩渥を受け、俗世に牽かれて素志を貫けなかった。蔬食を五十余年続けてきたので、瞑目の後も霊を立てず小床を置くのみとし、毎日清水を供え六斎日にのみ斎食・果菜を家にあるだけ供えればよく、別に営む必要はない」と述べた。
  • 察は一蔵の経を読み終えることを願い、ほぼ究竟していた。臨終には痛悩なく西向きに端座し、「一切は空寂」と念じたまま息を引き取り、その後身体は柔軟で顔色は生前のままであったという。両宮(皇帝・皇太子)はこれを悼み賻贈を厚くした。
  • 察は至孝で人倫を見る目に優れ、識見は冲虚謙遜で長所を誇らず、終日恬静に書記を楽しみとした。あらゆる書物に通じ、著述にはしばしば新奇な着眼を用い、その博識は重んじられた。著書に専心し白首に至るまで倦まず、みずから抄写・撰述の手を止めることがなかった。古今の考証と文字の校訂を好み、精采は老いてなお衰えなかった。仏典にも通暁し、撰した寺塔・僧侶の文章はとりわけ緻密であった。在位中は人材を多く推挙し、一善あれば必ず賞薦し、理不尽な干渉には応じなかった。尽心して主に仕え、機密を漏らすことはなかった。任遇が既に隆く衣冠の重責を担いながらも退静を求め声勢を避け、清潔に自らを処し、資産を築くことを勧められても笑って答えなかった。親族には睦まじく旧故には篤く、得た禄賜はみな周恤に充てた。
  • 後主が自ら製した文筆の巻軸は多く、別に一本を写して察に付け、疑義があれば刋定させた。察も推心して主に仕え、隠すところがなかった。後主はかつて朝士に「姚察は学に達し聞に洽く、手筆・典裁の精当は古来並ぶ者少なく、今の世でも師範とするに足る。訪対も詳明で聞く者を飽きさせない」と語り、製文のたびに察の草稿を求め「私は姚察の文章を賞味して倦むことがない、まことに一宗匠だ」と称えた。徐陵も一代の文名高い人物であったが、察の製述を見るたびに推重し、子の徐儉に「姚学士の徳学は他に類がない、汝は師とすべきだ」と語った。
  • 尚書令江総も察と篤い交わりを結び、著作をなす際には必ず先に察に見せてから世に出した。総が詹事であった折『登宮城』五百字詩を作り、副君(皇太子)や徐陵以下の名賢がこぞってこれに和した際、徐陵は後に総に「私が和した第五十韻は弟の集に寄せてある」と告げたが、総が文章を編纂する段になって陵の和した本が見当たらず、陵は察に「高才碩学ゆえ拙文にも光を添えてほしい、今この五百字の和作を出して徐侯の章に偶してくれ」と求めた。察が謙遜して未だ渡さずにいると、総は「もし公のこの作を得られなければ私の詩も棄てねばならず、徐公の依頼にも背く、両方失うわけにはいかない」と告げ、察はやむを得ず写しを渡した。通人からの推挙にはいつもこのように応じたという。
  • 著書は『漢書訓纂』三十巻、『説林』十巻、『西聘』『玉璽』『建康三鍾』などの記各一巻、いずれも該博を極め、文集二十巻とともに世に行われた。

附伝:子姚思廉

  • 察が撰した梁陳二史は未完のまま没したが、隋文帝の開皇年間、内史舎人虞世基が原本を求めて進上させ、宮中の内殿に留め置かれた。梁陳二史の多くの部分は察が撰したもので、序論や紀伝に欠落のある箇所については、臨終に際し体例を子の思廉に戒め、博く訪ねて撰続するよう命じた。思廉は涙を流してこれを奉行した。
  • 思廉は陳では衡陽王府法曹参軍から会稽王主簿に転じ、隋に入り漢王府行参軍として記室を掌り、河間郡司法に除せられた。大業初年、内史侍郎虞世基の奏により梁陳二代の史の続修を命じられ、以後少しずつ補続を進めた。

史論

  • 江総は清らかな品格と簡素な貴さを備え、辞采をもってこれを潤し、六官を師長するに及んで朝望に厚く応えた。史臣(姚思廉の父姚察)の徳もまたこれに輝き、風俗を厲まし人倫を厚くするに足るものであった。九流七略の書、名山石室の記、汲郡孔堂の書、王箱金板の文に至るまで窮め尽くし、坎井(狭い見識)を遍く探ったゆえに、道は人師の冠として縉紳の準的とされた。貴顕の職を歴任し、国典朝章、古今の疑議はみな後主が先臣(姚察)の裁断に委ねたという。