陳書卷二十七 列傳第二十一 江總
江総、字は総持。済陽考城の人。七歳で孤児となるも学問に励み、文才で早くから知られた。侯景の乱後は嶺南の蕭勃のもとに長く流寓し、天嘉四年に陳へ召還された。後主に厚く寵愛され尚書令にまで至ったが、政務を顧みず後庭で遊宴する「狎客」の一人となり、陳滅亡の一因ともされた。開皇十四年、隋の江都で七十六歳で没した。
出自と若き日の令名
- 江総、字は総持。済陽考城の人。晋の散騎常侍江統の十世孫。五世祖の江湛は宋の左光禄大夫開府儀同三司、諡は忠簡公。祖父の江蒨は梁の光禄大夫として当代に名を知られた。父の江紑は本州の迎主簿、若くして父の喪に堪えられず没した(梁書孝行伝に見える)。
- 総は七歳で孤児となり外家に依った。幼くして聡敏で至性を持ち、舅の呉平光侯蕭勱に鍾愛された。蕭勱は「お前の操行は際立ち神采は英抜だ、後に名を知られること私を超えるだろう」と語った。成長すると篤学で辞采に優れ、家伝の賜書数千巻を昼夜読み続けた。
- 十八歳で宣恵武陵王府法曹参軍から起家。中権将軍丹陽尹の何敬容が府を開き貴胄を集めて属官とした際、総も府主簿に任じられ、尚書殿中郎に遷った。梁武帝が『正言』を撰し始畢の述懐詩を作った際、総も同作し帝の嘆賞を得て侍郎に転じた。
- 尚書僕射范陽の張纉、度支尚書琅琊の王筠、都官尚書南陽の劉之遴らはいずれも高才碩学であったが、若い総を「忘年の友」として推重した。劉之遴が総に贈った詩の一節(宮中で二人が語り合う情景を詠んだもの)が伝わり、通人に称えられた逸話が残る。太子洗馬に遷り臨安令に出て、中軍宣城王府限内録事参軍・太子中舎人を歴任。北魏との通好の際、総と徐陵が使者として遣わされることになったが、総は病により行けなかった。
侯景の乱と嶺南への流寓
- 侯景が京都に乱を起こすと、詔により総は太常卿を権兼し小廟を守った。台城陥落後、総は艱難のうちに避難を重ね数年を経て会稽郡に至り龍華寺に憩い、『修心賦』を作りその序で当時の事情を述べた。序文の要旨は、太清四年秋、会稽の龍華寺(六世祖の宋尚書右僕射州陵侯が建立した由緒ある寺)に身を寄せ、華戎入り乱れ朝市が傾き淪んだ嘆きを述べ、この地の景勝と仏道への帰依の思いを詠じたものである(詳細な逐語引用は略す)。
- 総の第九舅の蕭勃が広州に拠っていたため、総は会稽から彼のもとへ身を寄せた。梁元帝が侯景を平定すると総を明威将軍始興内史に徴し郡の秩米八百斛を装束料としたが、江陵陥落によりついに赴任せず、以後嶺南に長く流寓した。天嘉四年、中書侍郎として朝廷に召還され、侍中省に直す。
陳における官歴
- 司徒右長史・東宮管記を歴任、給事黄門侍郎領南徐州大中正、太子中庶子通直散騎常侍を授かり東宮中正はそのまま。左民尚書に遷り太子詹事に転じ中正もそのまま。太子と長夜の飲を共にし良娣陳氏を養女とし、太子が微行した際に総の邸に立ち寄ったことが露見して免官された。
- 侍中領左驍騎将軍として起用され、再び左民尚書領左軍将軍となるが拝命前に公事で免ぜられ、散騎常侍明烈将軍司徒左長史として起用、太常卿に遷る。後主即位後、祠部尚書、領左驍騎将軍参掌選事、散騎常侍吏部尚書に転じ、まもなく尚書僕射参掌はそのまま。至徳四年宣恵将軍を加え佐史を置く。まもなく尚書令・鼓吹一部・扶を賜り、その策文には尚書令の重責を称える言葉が連ねられた(要旨のみ記す)。禎明二年中権将軍に進号。
- 京城陥落後、隋に入り開皇十四年、江都で卒去。時に年七十六。総は自ら生涯を振り返り「清顕の位を歴任したが世利を求めず権幸に近づかなかった。莊青翟が丞相に至っても記すべき事績がなかったのに対し、趙元叔は上計吏として列伝に光を残した。官に在って以来、一物にも迎合せず一事にも干渉しなかったが、流俗の士には怨みを買った。栄枯寵辱を意に介さなかったが、太建の世には権が群小に移り讒言や嫉視によりしばしば摧黜された。これも運命であろう」と述べた。
- さらに「後主が東宮にあった頃から文芸を愛でられ深い恩顧を受け、即位後も尚書令の重責を任されたが、才は古の賢人の半ばにも及ばず、位に恥じ入る思いである」とし、晋の武帝が荀勗に「周の冡宰は今の尚書令に当たる」と語った故事や、晋の太尉陸玩が「私を三公とするなら天下に人材がないことになる」と語った故事を引き、自らの地位が過分であることを述べた。若くして仏教に帰依し二十余歳で鍾山の霊曜寺で戒律を受け、晩年も摂山の布上人と交わり深く苦空の理を悟ったが、なお蔬食を貫けなかったことを生涯の負い目としたという。総の自叙は時人に「実録」と評された。
人柄と文名、後主との交わり
- 総は篤実で義に厚く寛和温裕、学を好み文に優れ、五言・七言詩にとりわけ長じたが、その作風は艶麗に流れる傾向があり、それゆえ後主に愛幸され側近の作品を多く残した。好事家が伝写し諷詠して今なお絶えない。
- 後主の代、総は宰相の職にありながら政務を執らず、日々後主と後庭で遊宴し、陳暄・孔範・王瑗ら十余人とともに「狎客」と称された。これにより国政は日に頽れ綱紀は立たず、諫言する者があればたちまち罪に問われ、君臣ともに昏乱して陳の滅亡に至った。文集三十巻が世に行われた。
- 長子の江溢、字は深源。文辞に優れたが性は傲誕で勢いを恃み人に驕り、近親故旧にも侮りを免れなかった。著作佐郎・太子舎人・洗馬・中書黄門侍郎・太子中庶子を歴任、隋に入り秦王文学となる。第七子の江漼は駙馬都尉秘書郎、隋の給事郎直秘書省学士となった。