陳書卷二十六 列傳第二十 徐陵(孝穆)
徐陵、字は孝穆。東海剡の人。梁の太子詹事徐摛の子で、幼少より神童と称され、梁・陳にわたり文章の第一人者として重用された。侯景の乱後は北斉に長く抑留されたが、帰国後は陳の高祖・世祖・高宗に仕え、吏部尚書として選官の綱紀を正し、尚書左僕射に至り一代の文宗と称された。清簡な人柄で俸禄をすべて親族に分け与えた。至徳元年、七十七歳で没した。
年表(17件)
- 普通二年父徐摛が晋安王の諮議となり、陵も寧蠻府軍事に参る
- 大通二年東宮学士に選ばれる
- 太清二年北魏へ使者として赴く
- 紹泰二年再び斉に使いする
- 天嘉四年五兵尚書領大著作となる
- 天嘉六年御史中丞として安成王の側近を弾劾免職させる
- 天康元年吏部尚書領大著作に遷り選官改革に着手する
- 太建元年尚書右僕射となる
- 太建二年尚書左僕射に遷る
- 太建十三年中書監領太子詹事に遷る
- 至徳元年卒去、時に年七十七
- 太清初年子儉、父の喪中に江陵へ避難する
- 太建初年子儉、広州刺史欧陽紇の反乱鎮定のため使者として派遣される
- 太建二年子份、二十二歳で卒去
- 開皇九年子儀、銭塘の赭山に隠棲する
- 太建六年弟孝克、国子博士・国子祭酒を兼ねる
- 開皇十九年弟孝克、七十三歳で卒去
徐陵――出自と若き日の令名
- 徐陵、字は孝穆。東海剡の人。祖父の徐超之は斉の鬱林太守・梁の員外散騎常侍。父の徐摛は梁の戎昭将軍太子左衛率、侍中太子詹事を追贈され諡は貞。母の臧氏は五色の雲が鳳と化して肩に集まる夢を見て陵を身籠ったという。
- 幼い頃、世に道あると称された寶誌上人が陵の頭を撫でて「天上の石麒麟だ」と言った。光宅寺の恵雲法師はその成長の早さを嘆じ、顔回になぞらえた。八歳で文を綴り、十二歳で荘子・老子の義に通じ、成長すると史籍を広く渉猟し、縦横の弁舌を持った。
徐陵――梁への出仕と北魏への使者
- 梁の普通二年、晋安王が平西将軍寧蠻校尉となり、父の摛が王の諮議となると、王は陵をも寧蠻府軍事に参らせた。大通二年、王が皇太子に立てられ東宮に学士が置かれると、陵はその一員に選ばれた。尚書度支郎に遷り、上虞令に出向。御史中丞劉孝儀と旧怨があり、県での贓汚を風聞で弾劾され免ぜられた。
- 後に南平王府行参軍として起用され、通直散騎侍郎に遷る。梁の簡文帝が東宮で『長春殿義記』を撰した際、陵に序を書かせ、少傅府で著した『荘子義』などの講述も命じた。鎮西湘東王中記室参軍に遷る。
- 太清二年、通直散騎常侍を兼ね北魏へ使いした。魏人が宴を設けた酷暑の日、主客の魏収が「今日の暑さはきっと徐常侍が来たせいだ」とからかうと、陵は即座に「昔、王肅がここに来て初めて礼儀を制した。今、私が聘使として来たので、卿はまた寒暑を知ったのだろう」と答え、収を大いに恥じ入らせた。
徐陵――侯景の乱と北斉抑留
- 侯景が京師に乱を起こした際、陵の父の摛は囲城の内にあり、陵は家からの音信を得られぬまま蔬食布衣で喪に服すように過ごした。まもなく斉が北魏の禅譲を受け、梁の元帝は江陵で承制し斉に通使を再開したが、陵はしばしば復命(帰国)を求めても最後まで抑留され続けた。
- 陵は僕射の楊遵彦に長文の書を送り、抑留を解いて帰国させるよう求めた。書中では、天道の窮まりと本朝(梁)の混乱、抑留される身の苦しみを述べた上で、なお八つの「未だ喩らざる」(納得できない)点を挙げて反論した。要旨は次のとおりである。
- 荊州刺史湘東王(後の元帝)は堯舜に比すべき徳を持ち、天命の帰趨は疑いないのに、なぜ自分たちの帰趨を疑われるのか。
- 晋熙など近隣諸郡はすでに斉に帰属し道が通じているのに、なぜ帰路がないと言うのか。
- 邵陵王の通和以来、両国の使者・賓客の往来は絶えず自由であるのに、なぜ自分たちだけ帰路を閉ざされるのか。
- 抑留された使者一行はすでに資財を使い果たし窮乏しているのに、これを人質のように利用する理はない。
- 自分たちを侯景側に帰す口実にする議論があるようだが、侯景は国家の仇敵であり、帰服などありえない。
- 本朝の公主・士女までもが乱により離散した惨状を思えば、侯景に義理立てする理由はどこにもない。
- 昔の異国の使者(鍾儀・襄老ら)の故事に照らしても、使者を長く抑留する理はない。
- 自分も謝常侍(同行者)も既に老齢であり、いたずらに時を空費すれば天寿を全うできない。
- この上、家族・妻子への思いも切々と述べ、帰国を許されるよう哀願した。
- 楊遵彦はついに返書しなかった。江陵陥落後、斉は貞陽侯蕭淵明を梁の嗣に立てて送るに際し陵を随行させた。太尉王僧辯は当初境を拒んで淵明を入れなかったが、往復の書状はいずれも陵の作であった。淵明入朝後、僧辯は陵を大いに喜んで厚遇し、尚書吏部郎として詔誥を掌らせた。
徐陵――陳の高祖への出仕
- 高祖が兵を率いて僧辯を誅し韋載を討伐した際、任約・徐嗣徽が虚に乗じて石頭を襲うと、陵は僧辯への旧恩から約のもとに赴いた。約らの平定後、高祖は陵を咎めず、貞威将軍尚書左丞に任じた。紹泰二年、再び斉に使いし、帰国後給事黄門侍郎・秘書監。高祖受禅後、散騎常侍を加え左丞はそのまま。
- 天嘉初年太府卿、四年五兵尚書領大著作、六年散騎常侍御史中丞。安成王頊が司空となり帝弟の尊で権勢を振るう中、直兵の鮑叔叡が王の威権を仮りて訴訟を抑圧していたが、大臣もこれを言い出せずにいた。陵はこれを聞き奏弾を書き、南台の官属を率いて奏案を持って入朝。世祖は陵の服装の厳粛さに姿勢を正し、安成王が殿上に立って世祖の様子を見て流汗し顔色を失う中、陵は奏版を進読させ、王を殿下に引き下ろさせ侍中中書監を弾劾免職させた。以後、朝廷は粛然とした。
徐陵――吏部尚書としての選官改革
- 天康元年、吏部尚書領大著作に遷る。陵は梁末以来の選官が適材を得ていないことを憂い、綱維を挙げ名実を厳しく照合した。冒進を求める者が絶えない中、陵は書を示して次の趣旨を説いた。
- 古来、吏部尚書は人物を品評し才能・門地・大小を量って官爵を授けるものである。梁末の混乱で典章が失われ、永定初年も戦乱直後で財政窮乏のため官階を銭絹の代わりに乱発し、員外常侍・諮議参軍のような閑職が路上に溢れる有様となったが、これは朝章にそぐわない。
- 今や衣冠礼楽は日に富み、旧来の乱れた慣行のままではいけない。分に過ぎた不満を訴える者が多いが、梁の朱异のような例は天子の抜擢であって選序の範囲外である。梁武帝や宋文帝の言葉(清顕の職は選挙によらないこともある)を引きつつ、秦の趙高や漢の田千秋のような特例を通例とすべきでないと説いた。
- この理を尽くして選官に臨むと述べ、世は皆これに服し当時の人々は魏の毛玠になぞらえた。
- 廃帝即位後、高宗が入輔し廃帝と異志を通じる者を黜けようとした際、陵をその議に加えた。高宗が纂歴すると建昌県侯(食邑五百戸)に封じられた。
徐陵――太建年間の重用と北伐の議
- 太建元年尚書右僕射、二年尚書左僕射に遷る。陵は表を上げて周宏正・王勱らを推挙し自らを謙譲したが、高宗は「周宏正は陛下が西より還られた旧藩の長史、王勱は太平相府の長史、張種は帝郷の賢戚である」と固辞する陵を数日にわたり説得し、ついに陵は詔を奉じた。
- 北伐の朝議で、高宗が元帥を挙げるよう求めた際、衆議は中権将軍淳于量を推したが、陵一人は異を唱えた。「呉明徹は淮左の出身で彼の地の風俗・将略・人材に通じており、当代並ぶ者はない」と論じ、議論は数日決しなかった。都官尚書裴忌が「臣は徐僕射に同ず」と言うと、陵は即座に「明徹は良将であるだけでなく、裴忌もまた良き副将である」と応じた。この日、明徹が大都督、忌が監軍事に任じられ、淮南数十州の地を平定した。
- 高宗は酒宴を設け陵に杯を挙げて「卿の知人ぶりを賞す」と言ったが、陵は席を避けて「決策は陛下の聖裁によるもので、臣の功ではありません」と答えた。この年侍中を加えられた。太建七年国子祭酒南徐州大中正を領するが公事により侍中僕射を免ぜられ、まもなく侍中に復し扶を給される。さらに領軍将軍を加え、八年翊右将軍太子詹事・佐史を置かれ、右光禄大夫に遷る。十年重ねて領軍将軍、安右将軍丹陽尹に遷り、十三年中書監領太子詹事・鼓吹一部を給される。
- 年老いて致仕を求める表を重ねると、高宗はこれを優遇し、将作に大斎を造らせ陵を私邸で執務させた。後主即位後、左光禄大夫太子少傅に遷る。至徳元年卒去。時に年七十七。
徐陵――人柄と文名
- 詔により侍中安右将軍左光禄大夫太子少傅南徐州大中正建昌県開国侯を追贈、諡は章。器局は深遠、容止は見るべきものがあり、性は清簡で財を営まず、俸禄はみな親族と分かち合った。太建中、建昌の食邑からの米が水辺に届くたび、貧窮の親戚に取らせ、数日で使い尽くしたため陵の家はしばしば困窮した。府僚が理由を問うと「私には車牛・衣裳を売る手立てがあるが、他の家にはそれさえない」と答えたという。
- 若くして仏教を信奉し経論に精通した。後主が東宮にあった頃、陵に『大品経』の義を講じさせると名僧が遠方から集まり、講筵での議論に及ぶ者はなかった。瞳に青光があり、聡慧の相と評された。
- 陳の創業以来の文檄・軍書・禅授の詔策はみな陵の起草によるもので、とりわけ九錫の文は最も美しく、一代の文宗と称された。それでいて驕らず、後進の徒への引き立てを惜しまなかった。世祖・高宗の代の国家の大手筆はみな陵が草した。その文体は旧来のものを大きく変え、緝裁は巧密で新意に富み、一篇が出るたびに好事家が伝写し、華夷にまで広まった。家に蔵された文集は喪乱を経て多くが散逸し、残るものは三十巻。子は儉・份・儀・僔の四人。
附伝:子儉
- 儉、一名は衆。幼くして修立し勤学して志操があった。汝南の周宏正はその人柄を重んじ娘を娶わせた。梁の太清初年、豫章王府行参軍から起家。陵が北魏へ使いして未帰還のうち侯景の乱が起こり、儉は当時二十一歳、老幼を擁して江陵に避難した。梁元帝はその名を聞き尚書金部郎中に召し、宴に侍って詩を賦した際、元帝は「徐氏の子にまた文才ある者が出た」と称賛した。
- 江陵陥落後、京師に還り、永定初年太子洗馬、鎮東従事中郎に遷る。天嘉三年中書侍郎。太建初年、広州刺史欧陽紇が反すると、高宗は儉に持節して旨を諭させた。紇は当初、儀仗を盛んに列して不遜な言辞を示したが、儉は「呂嘉の事はすでに遠い昔ではない。将軍は周廸・陳宝応の例を見ていないのか。禍を福に転ずるのに遅すぎることはない」と諭した。紇は黙して答えず、儉が衆を沮喪させることを恐れて入城を許さず孤園寺に留め置いて人を配して監視し、数旬帰らせなかった。
- 紇が出て儉に会った際、儉は「将軍はすでに事を起こしたが、私は天子に報告せねばならない。私の生命は将軍の手中にあっても、将軍の成否は私にかかっているのではない。どうか留めないでほしい」と告げると、紇はついに間道から儉を馳せ帰らせた。高宗は章昭達に紇討伐を命じ、紇の形勢に通じた儉に昭達の軍を監させた。紇平定後、高宗はこれを嘉し奴婢十人・米五百斛を賜り、鎮北鄱陽王諮議参軍兼中書舎人に任じた。
- 国子博士・大匠卿を歴任し黄門侍郎に遷り、太子中庶子に転じ通直散騎常侍を加え尚書左丞を兼ねたが公事により免ぜられ、中衛始興王限外諮議参軍兼中書舎人として起用、太子中庶子を経て貞威将軍太子左衛率・舎人はそのまま。後主が立つと和戎将軍宣恵晋熙王長史・行丹陽郡国事を授かるが父の喪により去職。和戎将軍として起用され尋陽内史に累遷、政は厳明で盗賊を鎮めた。散騎常侍に遷り建昌侯を襲封、御史中丞に入る。儉の性は公平で依附するところなく、尚書令江総も儉の弾劾を免れなかった。後主は深く委任し、右軍を兼領。禎明二年卒去。
附伝:子份
- 份は少くして父の風があり、九歳で『夢賦』を作ると、陵はこれを見て親しい者に「私は幼くして文を作ったが、これほどではなかった」と語った。秘書郎から起家し太子舎人に転じ、豫章王主簿・太子洗馬を歴任、海鹽令に出て政績があり、任期満了で太子洗馬に復した。
- 份は孝悌で知られた。陵が重病を患った際、份は香を焚き涙を流して跪き孝経を昼夜誦し続けること三日、陵の病はにわかに癒えた。親戚はみな份の孝心が感応したものと語った。太建二年卒去。時に年二十二。
附伝:子儀
- 儀は少くして聡警、周易生の挙で高第となり秘書郎、烏傷令に出た。禎明初年尚書殿中郎に遷り東宮学士を兼ねる。陳滅亡後、隋に入り開皇九年、銭塘の赭山に隠棲した。煬帝は学士に召し、著作郎に任じ、大業四年卒去。
附伝:弟孝克
- 孝克は陵の第三弟。少くして周易生として口辯に優れ玄理を談じ、成長して五経に遍通、史籍を博覧しよく文を作ったが、文才は義理に及ばなかった。梁の太清初年、太学博士から起家。至孝の性を持ち、父の喪に堪えられぬほど哀毀した。生母の陳氏に孝養を尽くした。
- 梁末侯景の乱で京邑は大飢饉となり餓死者は十のうち八、九に及んだ。孝克は母を養う饘粥にも事欠き、妻の東莞臧氏(領軍将軍臧盾の娘、容色に優れる)に「今の飢饉で母への供養が絶えようとしている。卿を富人に嫁がせて互いに助かりたいがどうか」と問うと、臧氏は承知しなかった。孝克は密かに媒を通じ、侯景の将で富裕な孔景行に意を伝え、景行は左右を従えて臧氏を強引に迎えた。臧氏は涙ながらに去り、得た穀帛はことごとく母の供養に充てた。孝克はさらに剃髪して沙門となり法整と改名、乞食で生計を立てた。臧氏も旧恩を忘れず密かに贈り物を続けた。
- 後に景行が戦死すると、臧氏は途中で孝克を待ち伏せ「あの時のことは卿を裏切ったのではない。今こそ脱することができたので、共に母を養おう」と告げ、二人は俗に戻って再び夫婦となった。東の銭塘の佳義里に居を移し、諸僧と釈典を討論し三論に通じ、日に二度、朝は仏経、晩は礼記・左伝を講じ、道俗の受業者は数百人に及んだ。
- 天嘉中、郯令に任じられたが本意ではなく間もなく去職。太建四年秘書丞に徴されたが応じず、蔬食長斎して菩薩戒を持ち、昼夜『法華経』を講誦した。高宗はその操行を嘉し、六年国子博士に除し通直散騎常侍兼国子祭酒に遷り、まもなく真の官となった。
- 孝克は侍宴のたびに食事に手をつけず、席が散じる頃にはその前の膳羞が減っていた。高宗は密かに中書舎人管斌に理由を尋ねさせたが分からず、斌が意を持って伺うと、孝克が珍果を紳帯の中に収めるのを見た。後日尋ねてみると、それを持ち帰って母に贈っていたことが判明した。斌がこれを高宗に告げると、高宗は嘆じてしばらくの後、以後の宴享では孝克の前の膳をそのまま持ち帰らせ母に贈らせるよう有司に勅した。時人はこれを美談とした。
- 至徳中、皇太子が入学し釈奠の礼を行った際、百司が陪列する中で孝克は『孝経』の題を発し、後主は皇太子に北面して敬意を表させた。禎明元年都官尚書に入る。晋以来、尚書の官僚はみな家族を伴って省に住み、省は台城内にあって下舎の門には東西に路を跨ぐ閣道があり朝堂に通じていた。第一の都官の省は西に閣道があり、年代久しく怪異が多く、昏夜にしばしば理由なき声や光が現れ、人が衣冠を着けて井戸から出て消える様が見られたり、門閣が自然に開閉したりして、居省者に死者が続出した。尚書の周確もこの省で卒去したが、孝克が代わって居住すると二年で妖変はことごとく止み、時人は孝克の正しさによるものと考えた。
- 孝克は清素で施しを好んだため貧窮が絶えず、後主は石頭津の税を給したが、孝克はすべて斎を設け経を写すのに用い、得るたびに使い尽くした。禎明二年散騎常侍として東宮に侍る。陳滅亡後、慣例に従い関中に入り、家道は困窮を極めた。生母が粳米の粥を欲したが常に用意することができず、母の没後に粳米を贈る者があっても、孝克はこれを前にして悲泣し、終身二度と口にしなかった。
- 開皇十年、長安で疫病が流行した際、隋文帝はその名行を聞いて尚書都堂で『金剛般若経』を講じさせ、まもなく国子博士に任じた。後に東宮に侍って礼記・左伝を講じ、十九年病により卒去。時に年七十三。臨終に端座して念仏し、室内に異香が漂い隣里の人々を驚かせたという。子の万載は晋安王功曹史・太子洗馬に至った。
史論
- 徐孝穆は五行の秀を体現し天地の霊を稟け、聡明にして今古を籠罩した。国家の締構・興隆に遭遇し位は朝宰に隆く、その献替の謀猷は誠に亮直であったと言うべきである。孝克は身を砥ぎ行いを厲まし、親を養うこと礼を超えたその志は、閔子騫にも通じるものがある。