陳書卷二十五 列傳第十九 孫瑒
孫瑒、字は徳璉。呉郡呉の人。侯景の乱で武功を立て、梁末は郢州刺史として北周の猛攻を千人足らずの兵で守り抜いた名将。陳に降った後も辺境守備・北伐で重用され、後主の代には侍中・五兵尚書に至った。文武に優れ施しを好んだ人柄で知られ、禎明元年、七十二歳で没した。
出自と侯景の乱
- 孫瑒、字は徳璉。呉郡呉の人。祖父の孫文惠は斉の越騎校尉・清遠太守。父の孫循道は梁の中散大夫で、清雅な人物として知られた。瑒は若くして倜儻として謀略を好み、経史を広く渉猟し書翰に長じた。
- 梁の輕車臨川嗣王行参軍から起家、安西邵陵王水曹中兵参軍事に累遷。邵陵王が郢州に出鎮すると瑒は一族を挙げて随行しその厚遇を受けた。太清の乱で仮節宣猛将軍軍主を授かる。王僧辯の侯景討伐の際、王琳が前軍となり、瑒は琳と同門であったため戎昭将軍宜都太守として推薦された。僧辯に従い徐文盛を武昌に救おうとしたが、郢州陥落のため巴陵に留まり戦守の備えを修めた。侯景の兵が至り昼夜攻囲する中、瑒は所部の兵を挙げて力戦し敵を退けた。姑孰攻略でも功を立て、員外散騎常侍・富陽県侯(食邑千戸)に封じられた。
王琳との戦いと郢州死守
- 仮節雄信将軍衡陽内史を授かるが赴任前に衡州平南府司馬に遷り、黄洞の蠻賊を破る功を立て東莞太守・行広州刺史に除せられ、のち智武将軍監湘州事。敬帝嗣位後、持節仁威将軍巴州刺史に任じる。
- 高祖受禅後、王琳が梁の永嘉王蕭荘を郢州に立てると、瑒は太府卿・通直散騎常侍に徴召された。王琳の入寇に際し、瑒は使持節散騎常侍都督郢荊巴武湘五州諸軍事安西将軍郢州刺史として留府の任を総括した。北周の大将史寧が四万の兵で虚を突いて攻め寄せると、瑒の助防張世責は外城を挙げてこれに応じ、軍民男女三千余口を失った。周軍はさらに土山・高梯を築いて昼夜攻め、風に乗じて放火し内城南面の五十余楼を焼いた。瑒はわずか千人に満たぬ兵で城を守り、自ら巡撫し酒食を配って士卒を励まし、周人は苦攻しても落とせなかった。
- 周は瑒を柱国郢州刺史・万戸郡公に偽って授けようとしたが、瑒は偽って承知しつつ密かに戦具・楼雉を修め、一朝にして厳戒の構えを整えたため周人はこれを憚った。大軍(周の主力)が敗れ王琳が勝ちに乗じて進むと聞くと周兵は囲みを解いた。瑒は中流の地をことごとく保持し、将士を集めて「私は王公とともに力を尽くし義を守り梁室を助けてきたが、今の時勢に天命は逆らえない」と告げ、使者を遣わして陳に降った。天嘉元年、使持節散騎常侍安南将軍湘州刺史・定襄県侯(食邑千戸)に任じられた。
陳における官歴
- 瑒は懐に安んじられず入朝を固く願い出て、散騎常侍中領軍に徴召された。世祖は「昔、朱買臣は本郡の卿になりたいと願ったが、卿にもその意はあるか」と語り、持節安東将軍呉郡太守・鼓吹一部を賜って改授、赴任の際には輿駕が近畿まで見送り、郷里に錦を飾るものとして栄誉とされた。任期満了で散騎常侍中護軍に徴召され鼓吹はそのまま。
- 留異が東陽で反すると瑒は舟師を督して進討し平定、鎮右将軍に遷り常侍・鼓吹はそのまま。その後使持節安東将軍建安太守に出向、光大中に公事により免ぜられたが、まもなく通直散騎常侍に起用された。
- 高宗即位後、瑒の功名の高さから重用され、太建四年都督荊信二州諸軍事安西将軍荊州刺史として公安に出鎮、城池を増築し辺境を懐柔した。六年間在職の後、また事により免ぜられ通直散騎常侍となる。
- 呉明徹が呂梁で軍を敗ると、瑒は使持節督縁江水陸諸軍事鎮西将軍・鼓吹一部を授かり、まもなく散騎常侍都督荊郢巴武湘五州諸軍事郢州刺史・持節将軍・鼓吹はそのまま。太建十二年、疆場での交通の罪に問われた。
- 後主嗣位後、通直散騎常侍兼起部尚書に復し、まもなく中護軍・爵邑を回復。度支尚書領歩兵校尉に入り、散騎常侍を加え侍中祠部尚書に遷る。後主はしばしばその邸を訪れ詩賦を著して勲徳を称え君臣の意を示した。さらに五兵尚書領右軍将軍・侍中はそのまま。年老いてしばしば骸骨を乞うたが優詔で許されず、禎明元年官にて卒去。時に年七十二。後主は臨哭甚だ哀しみ、護軍将軍・侍中を追贈し鼓吹一部・朝服一具・衣一襲を給し、喪事に資給を加えた。諡は桓。
人柄と最期
- 瑒は親に事えて孝で知られ、諸弟とも篤く睦まじかった。性質は通泰で財物を親友に散じ、居所は贅を尽くし庭院に林泉の趣を極め、歌鍾・舞女は当世に並ぶものなく、賓客が門を埋め軒蓋が絶えなかった。郢州出鎮の際には十余隻の船を連ねて大舫を作り、亭・池を設け荷や芰を植え、良辰美景には賓僚を集めて長江に泛び酒宴を開き、一時の勝賞とされた。
- 山斎にしばしば講筵を設け玄儒の士を集め、冬夏の資奉を惜しまず学者に称えられた。身の処し方は率易で名位を誇らず、皇興寺の朗法師(釈典に通じた僧)の講筵にたびたび造り抗論した。巧思は人に優れ、起部尚書として軍国の器械を多く創案した。人物鑑識にも優れ、子女の婚姻には常に素封の家を選んだ。
- 卒去に際し尚書令江総が墓誌銘を撰し、後主も自ら銘の後に四十字を題し、左民尚書蔡徴に命じて邸宅で鐫させた。その詞は「秋風動竹、煙水驚波。幾人樵徑、何處山阿。今時日月、宿昔綺羅。天長路逺、地久靈多。功臣未勒、此意如何」というもので、時の人々はこれを栄誉とした。
- 瑒には二十一子あり、みな父の風があった。世子の孫讓は早世、次子の孫訓は名を知られ臨湘令・直閤将軍・高唐太守を歴任、陳滅亡後隋に入った。
史論
- 梁末、寇賊が繁く興った際、高祖は義を建て旗を杖して区夏を安んじようとした。裴忌は早くよりこれに攀附し、しばしば戎麾に加わり鋭鋒を摧き敵を退け、功を立てること数度に及んだ。
- 孫瑒は文武の幹略を備え時主に知られ、行軍用兵は司馬の法に則り、戦勝攻取の功を屡々挙げた。加えて施しを好み人に接し、士はみなこれに心服したが、性は常道に従わず、しばしば罪により免ぜられた。これもまた陳湯のたぐいと言うべきであろう。