陳書卷二十四 列傳第十八 袁憲
袁憲、字は徳章。尚書左僕射袁樞の弟。幼くして神童と称され、梁の国学で難問に淀みなく答えて名を高めた。陳では吏部尚書・尚書右僕射を歴任し、高宗の顧命を受け始興王叔陵の乱の鎮定に功があり、後主の廃立にも敢然と諫言した骨鯁の臣。陳滅亡に際し後主の側を最後まで離れず、隋に入り開皇十八年、七十歳で没した。
出自と若き日の令名
- 袁憲、字は徳章。尚書左僕射袁樞の弟。幼くして聡敏で学を好み、雅量があった。梁武帝が学校制度を興し五館を別置した際、その一館が憲の邸宅の西にあり、憲は諸生を招いて談論し、その新奇な議論はしばしば人の意表を突いた。
- 大同八年、武帝が『孔子正言章句』を撰し国学に詔して制旨義を宣べさせた際、憲は十四歳で国子正言生に召された。祭酒の到溉が謁見の際にその神彩を愛でて見送った。
- 国子博士周宏正が父の袁君正に「賢子は今にも策試を受けさせるべきだ」と勧めたが、君正は「経義はまだ浅いので試させられない」と答えた。数日後、君正は門下客の岑文豪を憲に随行させ宏正を訪ねさせた。宏正が講座に登る際、弟子が集まる中で憲を招き入れ麈尾を授けて義を立てさせた。
- その場に居合わせた謝岐・何妥に宏正が「二賢は奥義を窮めても、この後生を恐れることはあるまい」と語ると、何・謝は次々に義端を起こし、憲は数番の応酬に淀みなく答えた。宏正は妥に「思う存分問え、幼童扱いはするな」と告げ、満堂の聴衆が驚く中、憲は動じず弁論を尽くした。
- 宏正は起こる難問をことごとく退けられず、文豪に「呉郡(君正)に伝えよ、この子は既に代わって博士たり得る」と告げた。当時、生徒の対策には賄賂が横行していたが、文豪が束脩の用意を君正に求めると、君正は「私が金で息子の席次を買うことなどできようか」と断り、学司の怨みを買った。
- 憲の試験では次々に難問が浴びせられたが、憲は問いに応じて澱みなく答え、剖析は流れるようであった。到溉は君正に「君の家には後継ぎがいる」と語った。君正が呉郡に赴任する際、溉は餞別の宴で「昨日試された蕭敏孫・徐孝克は義理を解さぬわけではないが、風格・器量は賢子に遠く及ばぬ」と評した。まもなく高第に挙げられ、貴公子として梁簡文帝の娘南沙公主に選ばれ嫁を娶った。
陳における官歴
- 大同元年、秘書郎から出仕。太清二年、太子舎人に遷る。侯景が乱を起こすと憲は呉郡へ避難し、父の喪に遭い哀毀は礼を過ぎた。敬帝の承制下で尚書殿中郎に徴召される。
- 高祖が輔政すると司徒戸曹に除せられ、永定元年中書侍郎・散騎常侍を兼ね、黄門侍郎の王瑜とともに北斉への使者となり数年抑留されたが、天嘉初年帰還。天嘉四年、中書侍郎に復し侍中省に直す。太建元年給事黄門侍郎、太常事を知り、二年尚書吏部侍郎に転じ散騎常侍を兼ね東宮に侍る。
- 太建三年御史中丞領羽林監に遷る。豫章王叔英が法度を守らず人馬を強奪した際、憲は事実に基づき弾劾し叔英は免黜され、以後朝野は厳粛に憲を憚った。憲は朝章に詳しく訴訟の判断に明るく、獄情が尽くされず有司が形式のみ整えた場合には機会を伺って上言し、その申理は多岐に及んだ。
- あるとき承香閣の宴に陪した後、高宗は憲と衛尉樊俊を留めて山亭で終日語り合い、俊に「袁家にはまさに人あり」と憲を評した。太建五年侍中に入り、六年吳郡太守に除せられたが父の名を憚り固辞、明威将軍南康内史に改められた。太建九年任期満了で散騎常侍兼吏部尚書、まもなく真の吏部尚書となる。久しく清顯の任にあることを憚って解任を求める上表を重ねたが、高宗は「他の者は在職中に謗書が絶えないが、卿の処事は清白と言える」として慰留した。
- 太建十三年尚書右僕射に遷り選事に参掌。長兄の袁簡懿(樞)が左僕射であったため、台省内では簡懿を「大僕射」、憲を「小僕射」と呼び、朝廷はこれを栄誉とした。
太子廃立への諫言
- 高宗の病篤い際、吏部尚書毛喜とともに顧命を受けた。始興王叔陵が乱を起こした際、憲は指揮して事態収拾に功があった。後主が瘡病篤い折、憲の手を執り「我が子はまだ幼い、後事を卿に託す」と言ったが、憲は「衆情は陛下の回復を望んでおります、後事のことはまだ承れません」と答えた。この功により建安県伯(食邑四百戸)に封じられ、太子中庶子を領した。
- 至徳元年、太子が元服し、翌年釈奠の礼を行う際、憲は解職を願い出たが後主は許さず、扶二人を賜り雲麾将軍に進号、佐史を置いた。
- 皇太子が典訓に従わないことに対し、憲は手表を上げて十条にわたり諫めた。言辞は切実で率直であったが、太子は表面では受け入れつつ改めなかった。後主が寵姫張貴妃の子の始安王を嗣に立てようとひそかに話した際、吏部尚書蔡徴が旨に順って賞賛したが、憲は色を厲しくして「皇太子は国家の儲嗣、億兆の心の拠り所である。卿は何者か、軽々しく廃立を口にするとは」と叱った。太子は結局吳興王に廃された。後主は憲の諫めがあったことを知り「袁徳章はまことに骨鯁の臣」と嘆じ、その日のうちに尚書僕射に任じた。
陳の滅亡に臨む
- 禎明元年、隋軍が来襲し隋将賀若弼が宮城の北掖門を焼くと宮衛はみな逃げ散り、朝士も次々に去ったが、憲だけは後主の側を離れなかった。後主は「私はこれまで卿を他の誰よりも重んじてきたが、今日の卿を見て歳寒の松柏の凋まぬことがよく分かった」と語った。
- 後主が慌てて逃げ隠れようとした際、憲は色を正して「北兵の入城で無法な行いはありますまい。事ここに至っては陛下は落ち着くべきです。願わくは陛下は衣冠を正して前殿に出御し、梁武帝が侯景を迎えた故事に倣われますよう」と諫めたが、後主は聞かず榻を下りて逃げ出した。憲は後堂の景陽殿まで従ったが、後主は井戸に身を投げた。憲は哭泣して城を出た。
- 京城陥落後、隋に仕え使持節昌州諸軍事・開府儀同三司・昌州刺史を授かる。開皇十四年、晋王府長史に任じ、十八年卒去。時に年七十。大将軍安城郡公を追贈、諡は簡。長子の承家は隋に仕え秘書丞・国子司業に至った。
史論
- 梁元帝が「士大夫の中でも汝南の周宏正を重んじる」と語ったのはまことに至言である。宏正の雅量は際立ち、とりわけ玄言に長じ、一代の国師たる存在であった。
- 袁憲は風格厳峻にして義に殉じ道を履んだ人物であり、韓非子の言う「人臣たるものは身を捧げて二心なし」を体現した。その節を終始変えなかったことは、まことに称えるに足る。