高祖への帰服と献策
- 韋載、字は徳基。京兆杜陵の人。祖の韋叡は梁開府儀同三司・永昌嚴公、父の韋政は梁黄門侍郎。載は少くして聡慧篤志好学、十二歳の時、叔父の韋稜に随い沛國の劉顯に見え漢書十事を問われ滞りなく応答、長じて文史を渉猟し沉敏で器局があった。梁邵陵王法曹參軍から出仕し太子舎人・尚書三公郎に遷る。侯景の乱で元帝承制の中書侍郎、まもなく建威將軍・尋陽太守として都督王僧辯の東討に従い、僧辯が湓城に軍を布き魯悉逹・樊俊らが観望する中、元帝は載を假節都督太原髙唐新蔡三郡諸軍事・髙唐太守とし悉達らに出軍を諭させ、大軍東下時は三郡兵を率い焦湖から柵口に出て僧辯と梁山で会した。景平定後、冠軍將軍・琅邪太守を経て東陽・晉安への使いで留異・陳寳應らを招撫、信武將軍・義興太守。
- 高祖の王僧辯誅殺後、周文育の軽兵が載を襲うが載は事前に察し嬰城自守、文育の急攻に対し所属県卒(多くが高祖の旧兵)の善用弩の者数十人を長鏁で繋ぎ命中を試させ「十発両中せざれば死」と約し毎発命中で文育軍を退けた。城外の水柵で対峙数旬に及び、高祖は自ら征し水柵を破ったが、族弟の韋翽に書を持たせ王僧辯誅殺の意と梁景帝の勅を伝えて載に解兵を促すと、載は書を得て高祖に降った。高祖は厚く撫慰し族弟の翽に義興郡監、載を左右に置き謀議に与らせた。
- 徐嗣徽・任約が齊軍を引き入れ石頭城に拠ると、高祖が計を問い、載は「齊軍が兵を分け三呉の路を先取して東境を略地すれば時事は去る。淮南の侯景故塁に急ぎ城を築き東道を通じて転輸し、別に軽兵で糧運を絶てば齊將の首は旬日で得られる」と答え高祖はこれに従った。永定元年、和戎將軍・通直散騎常侍。二年、輕車將軍に進み、まもなく散騎常侍・太子右衛率(將軍如故)。天嘉元年、疾により去官。江乘縣白山の田十餘頃に築室し人事を屏絶、吉凶慶弔で往来せず籬門に入らぬこと幾十年、太建中、家で卒した。時に年五十八。
韋翽――俠御將軍としての生涯
- 韋翽、字は子羽。載の族弟。少くして志操あり、祖の韋愛は梁輔國將軍、父の韋乾向は汝隂太守。翽は弱冠で父を喪い哀毁甚だしく母を養い孤児の兄弟の子を仁孝で著称した。高祖が南徐州刺史のとき征北參軍に召され、まもなく義興郡監。永定元年、貞毅將軍・歩兵校尉、驍騎將軍・領朱衣直閤に遷る。驍騎の職は旧く営兵を領し宿衛を兼統し、梁代以来その任は重く、出れば羽儀清道、入れば二衛と通直、臨軒すれば殿に升り俠侍した。翽は素より名望あり大事には常に左右に俠侍を命ぜられ時人に「俠御將軍」と号された。まもなく宣城太守に出、天嘉二年、王琳平定の功に預り清源縣侯(邑二百戸)に封ぜられた。太建中、官にて卒し、明・霍・羅三州刺史を贈られた。子の韋宏、字は徳禮、文学あり永嘉王府諮議參軍に至り、陳滅亡後は隋に入った。
史論
- 史臣曰く、かつて鄧禹は文学に基づき杜預は儒雅より出て、共に軍功を成し名を前代に著した。晉室の喪乱で江左へ播遷した頋榮・郗鑒の輩、温嶠・謝𤣥の倫は皆巾褐の書生・縉紳の素誉でありながら敵に抗して社稷を衛り勲を立てて台鼎に升り、以降代々その人があった。ただ梁室が沸騰し懦夫も志を立てたのは、身をもって時運に遭い時主に仗ったからで美事である、とする。