陳書卷十八 列𫝊第十二 袁泌

侯景の乱から西梁事変の顛末

  • 袁泌、字は文洋。左光祿大夫袁敬の弟。清正で幹局あり容体魁岸、志行修謹。員外散騎侍郎から出仕し諸王府佐を歴任。侯景の乱で泌は将となることを求め、兄の袁君正が呉郡太守だった折、梁簡文帝は泌を東宮領直に板授し呉中で召募させた。景が臺城を囲むと泌は所領を率い京城救援に赴くが京城陥落後、東陽に退保、景の追撃を避け会稽東嶺から湓城へ出て鄱陽の嗣王蕭範に依った。範卒後、泌は景に降り、景平定後、王僧辯の表で富春太守・兼丹陽尹。貞陽侯僣位時は侍中として齊へ使いし、高祖受禪後、王琳が上流に拠ると泌は齊から梁の永嘉王蕭莊のもとへ赴き、莊僣立後は侍中・丞相長史。
  • 天嘉二年、泌は莊を輔け琳と共に柵口に至るが琳軍敗れ衆散る中、泌独り軽舟で莊を北境へ送り届け、莊を御史中丞劉仲威に託し共に齊へ入らせた後、拝辞して帰り闕に詣で罪を請うた。文帝はこれを深く義とし、寧遠始興王府法曹參軍・諮議參軍に除し、通直散騎常侍・兼侍中・領豫州大中正に遷り、周へ聘し還ると散騎常侍・御史中丞(中正如故)。髙宗入輔後、雲旗將軍・司徒左長史。光大元年、卒。時に年五十八。臨終に子の袁蔓華へ「朝廷に功績なく瞑目後は斂手足・旋葬のみとし贈諡を受けるな」と戒めたが、子は泌の遺意に反し朝廷に表請、許されず金紫光祿大夫・諡質を贈られた。