出自と経歴
- 陳昌、字は敬業。高祖(陳霸先)の第六子。梁の太清末、高祖が李賁討伐で南征した際、昌は宣后と共に沈恪に随い呉興に還った。高祖が侯景討伐で東征すると昌と宣后・世祖(陳蒨)は共に景に囚われた。景平定後、長城國世子・呉興太守を拝命。時に年十六。容貌は偉麗、神情秀朗、聡辯で政事に明るかった。高祖は謝哲・蔡景歴を遣し昌を輔けさせ、杜之偉に經書を授けさせた。昌は一覧して誦し義理に明るかった。
- 高祖と共に荆州へ赴き、梁元帝から員外散騎常侍を授かる。荆州陥落後は高祖と共に関右(西魏)へ移された。西魏は高祖の縁により昌を厚遇。高祖即位後、髙宗(陳頊)及び昌の帰還を周に請うたが許されず、高祖崩後にようやく帰還が許された。時に王琳が中流に拠り昌は帰還できず安陸に留まった。琳平定後の天嘉元年二月、昌は安陸を発し魯山から済江しようとした。
百僚の上表と溺死
- 巴陵王蕭沇ら百僚が上表し、昌を使持節散騎常侍・都督湘州諸軍事・驃騎將軍・湘州牧・衡陽郡王(邑五千戸)に封じるよう請い、皁輪三望車・鼓吹一部・班劒二十人を加えるよう求めた。詔許可、三月に入境。丙子、済江の際に船が壊れ溺死。四月庚寅、喪柩が京師に至り、上(世祖)は自ら哭に臨んだ。
- 詔して侍中・假黄鉞・都督中外諸軍事・太宰・揚州牧を贈り、東園温明祕器・九旒鑾輅・黄屋左纛・虎賁班劒百人・輼輬車・前後部羽葆鼓吹を給し、葬儀は漢の東平憲王・齊の豫章文獻王の故事に倣った。大司空に持節で喪事を迎護させ、大鴻臚が羽衞を副えた。諡は獻。子がなく、世祖は第七皇子伯信を嗣とした。