陳書卷十三 列傳第七 周敷

侯景の乱での義行

  • 周敷、字は仲逺。臨川の人で郡の豪族。体は小さいが膽力勁果、豪俠軽財で郷党の少年らが帰した。侯景の乱で郷人周續が徒衆を集め討賊を名目に活動し、梁内史始興藩王蕭毅が郡を續に譲ると、續の部下が毅を侵掠しようとしたのを敷が擁護し、豫章まで送り届けた。観寧侯蕭永・長樂侯蕭基・豐城侯蕭泰が難を避けて流寓し敷の信義を頼ると、敷は屈体して崇敬し西へ送った。
  • 續の部下が反して續を殺すと、簿閥のない周迪は敷の族望を頼り交結を求め、敷は迪に恭しく仕えたため迪は次第に兵衆を得た。侯景平定後、梁元帝から使持節通直散騎常侍・信武將軍・寧州刺史・西豐縣侯(邑一千戸)を授けられた。

王琳戦から周迪との対立、死

  • 高祖受禪後、王琳が上流に拠り余孝頃らが周迪を包囲すると、敷は人馬を送って迪を助け孝頃らを擒えるのに功が最も多かった。熊曇朗が周文育を殺し豫章に拠り敷を襲うと大破し追撃、曇朗は巴山郡へ逃れたが敷は周迪・黄法氍らと共にこれを囲み屠った。王琳平定後、散騎常侍・平西將軍・豫章太守。南江の酋帥たちが私署して朝廷に赴かぬ中、敷だけが先んじて入朝、天嘉二年、安西將軍・鼓吹一部・女妓一部を得て豫章に還鎮した。
  • 周迪は敷が自分より下位から超えて顕貴になったことに不平を抱き反乱、弟の周方興に敷を襲わせたが敷は大破し、都督吳明徹の迪討伐に従い方興らを擒えた。安西將軍・臨川太守を経て使持節都督南豫北江二州諸軍事・鎮南將軍・南豫州刺史・増邑五百戸。天嘉五年、迪が再び挙兵し東興を襲うと敷は都督章昭達に従い定川縣で迪と対峙、迪は「昔の兄弟の情を思い罪を伏し還朝したい」と偽って盟を求め、敷が壇に登った際に迪に殺害された。時に年三十五。
  • 詔して敷の勤誠を讃え「夙著勤誠」としながらも「違律虛衿姦詭に貽す」と評し、茅賦の量に応じ賻恤・還葬京邑・諡は脱を賜り、子の周智安が嗣いだ。敷の兄周彖も敷と本郷に拠り臨川太守を授けられた。