陳書卷十二 列傳第六 徐度
徐度、字は孝節。安陸の人(世々京師に居した)。侯景の乱で高祖に従い蔡路養・李遷仕討伐など各地を転戦し功を重ねた武将。陳建国後は湘州刺史・司空に至り、光大二年、六十歳で薨じた。子の徐敬成も北伐等で武功を挙げた。
出自と侯景の乱での活躍
- 徐度、字は孝節。安陸の人で世々京師に居した。倜儻不拘小節、姿貎瓌偉、酒を嗜み博を好んだ。梁の始興内史蕭介の郡に従い山洞征討で驍勇と聞こえ、高祖の交趾征討に厚く招かれ委質。侯景の乱で高祖の廣州平定・蔡路養平定・李遷仕撃破の計画に多く関与し、兵甲を統べて戦功を重ねた。白茅灣に至ると梁元帝から寧朔將軍・合州刺史を授けられ、侯景平定後は通直散騎常侍・廣徳縣侯(邑五百戸)に加えられ散騎常侍に遷る。
陳建国前後の各地転戦
- 高祖が朱方に鎮すると信武將軍・蘭陵太守。高祖が衡陽獻王の荆州平定に度を従わせたが荆州陥落し閒行で東帰。高祖の王僧辯平定に度は矦安都と水軍を担い、紹泰元年、高祖の杜龕東討に際し敬帝を奉じ京口に幸し宿衛と留府事を領した。徐嗣徽・任約らの来寇で石頭城が奪われると度は冶城寺に鎮し塁を築いて防ぎ、高祖の救援と合わせ約らを大破。翌年嗣徽らが齊寇を引き入れると北郊壇でこれを破った。
- 功により信威將軍・郢州刺史・呉興太守を兼ね、鎮右將軍・領軍將軍・徐州緣江諸軍事・鎮北將軍・南徐州刺史・鼓吹一部。周文育・矦安都らの王琳西討が敗れ捕らえられると度は前軍都督として南陵に鎮した。世祖嗣位後、侍中・中撫軍將軍・開府儀同三司・公に進むが未拝のまま使持節散騎常侍・鎮東將軍・呉郡太守。天嘉元年、増邑千戸・湘東郡公(邑四千戸)に改封。
- 侍中・中軍將軍を経て都督會稽東陽臨海永嘉新安新寧信安晉安建安九郡諸軍事・鎮東將軍・會稽太守(未行)のところ、太尉矦瑱が湘州で薨ずると度が代わって都督湘沅武巴郢桂六州諸軍事・鎮南將軍・湘州刺史。侍中・中軍大將軍・儀同・鼓吹。世祖崩後、顧命に預かり甲仗五十人で殿省に入った。廢帝即位後、司空に進む。華晈の湘州反乱・周兵引き入れに対し車騎將軍・總督歩軍として安成郡から嶺路を経て湘東を襲い湘州の軍人家口を得た。光大二年、薨。時に年六十。太尉・班劒二十人・諡は忠肅を贈られ、太建四年高祖廟庭に配享。子の徐敬成が嗣いだ。
徐敬成――父の遺業を継ぐ
- 徐敬成、幼くして聡慧で読書を好み機警で占対に善く、識鑒で知られた。著作郎から出仕、周文育・矦安都の王琳沌口討伐に従い敗績し捕らえられたが、翌年ともに帰還。太子舎人・洗馬を経て、父が呉郡太守の時は郡事を監した。天嘉二年、太子中舎人・湘東郡公世子。四年、度が湘州から還朝すると敬成がその精鋭を領し、章昭達の陳寳應討伐に従い晉安平定後、貞威將軍・豫章太守。
- 光大元年、華晈謀反に際し假節都督巴州諸軍事・雲旗將軍・巴州刺史となり水軍として吳明徹の華晈討伐に従う。太建二年、父の喪により去職、後に持節都督南豫州諸軍事・壮武將軍・南豫州刺史に起用。四年、湘東郡公を襲爵、太子右衞率。五年、貞威將軍・呉興太守。その年、吳明徹の北討(秦郡)に従い都督として金翅で歐陽から泝江、廣陵から繁梁湖を経て淮陰を包囲、北兖州淮泗の義兵が相応じ衆數萬に至り淮陰・山陽・鹽城の三郡と口胊山の二戍を克ち、鬰州も攻略。功により通直散騎常侍・雲旗將軍・増邑五百戸、壮武將軍に進み胊山に鎮したが、軍中で科訂を行い新附を誅したことで免官。後に持節都督安元潼三州諸軍事・安州刺史となり宿預に鎮した。七年卒。時に年三十六。散騎常侍・諡は思を贈られ、子の徐敞が嗣いだ。