梁末の武功と陳への帰順
- 淳于量、字は思明。先祖は濟北の人で世々京師に居した。父文成は梁の将帥で光烈將軍・梁州刺史。量は幼くして自ら善く身を処し容姿偉れ幹略・弓馬に長じた。梁元帝が荆州刺史の頃、文成は量に人馬を分け仕えさせた。湘東王國常侍・西中郎府中兵參軍を経て府佐・中兵直兵を十餘年兼ね、荆雍の界で蠻左討伐に功、廣晉縣男(邑三百戸)となり涪陵太守・新興武寧二郡太守を歴任。
- 侯景の乱で元帝の五軍入援の一に量も加わり、臺城陥落後荆州に還り、承制で假節通直散騎常侍・都督巴州諸軍事・信威將軍・巴州刺史。景の西上を巴陵で王僧辯と共に拒み任約を擒え、郢州攻めで宋子仙を獲た。承聖元年、左衞將軍・謝沐縣侯(邑五百戸)を経て都督桂定東西寧等四州諸軍事・信威將軍・桂州刺史。
- 荆州陥落後は桂州を保ち、王琳の招きに応じつつ密かに高祖に帰順。高祖受禪後、平西大將軍・鎮南將軍・鎮西大將軍・開府儀同三司に進む。世祖嗣位後、征南大將軍。王琳平定後、天嘉五年に中撫大將軍となるが、部下の望郷心から入朝が遅れ天康元年に到都後は有司の奏で儀同を免ぜられた。
太建期の重用
- 光大元年、鼓吹一部を加えられ、華晈の反乱では西討大都督として郢州樊浦で拒み晈平定に功、周将拓跋定らの降を得て侍中・中軍大將軍・開府儀同三司・醴陵縣公(増邑一千戸)に進む。都督南徐州諸軍事・鎮北將軍・南徐州刺史を経て太建元年、征北大將軍。三年、江陰王蕭季卿の梁陵盗伐事件に連座し免官となるが後に復す。五年、中䕶大將軍。
- 吳明徹の西伐に量も子の淳于岑を従軍させ淮南平定に貢献、始安郡公(増邑一千五百戸)に改封。六年、都督郢巴南司定四州諸軍事・征西大將軍・郢州刺史。七年、中軍大將軍・護軍將軍。十年、明徹の陥没に際し都督水陸諸軍事を加えられ、都督南北兖譙三州諸軍事・車騎將軍・南兖州刺史。十三年、左光禄大夫・増邑五百戸。十四年四月薨。時に年七十二。司空を贈られた。