高宗柳皇后
- 高宗柳皇后、諱は敬言、河東解の人。曾祖世隆は斉の侍中・司空・尚書令・貞陽忠武公。祖惲は梁代に重名あり秘書監に至り侍中中護軍を追贈された。父偃は梁武帝の女長城公主を娶り駙馬都尉を拝し、大宝中に鄱陽太守として官に卒した。后は時に九歳であったが家事を治めること成人のようであった。侯景の乱で后は弟盼とともに江陵へ赴き梁の元帝に頼り、元帝は長城公主の縁で厚く遇した。高宗が江陵に赴くと元帝は后を配わせた。承聖二年、后は江陵で後主を生み、翌年江陵陥落により高宗は関右に遷され、后は後主とともに穰城に留まる。天嘉二年、後主とともに朝に帰り、后は安成王妃となった。高宗の即位により皇后に立てられた。后は姿容美しく身長七尺二寸、手は膝を過ぎるほど長かった。高宗が郷里にあった当初、先に呉興の銭氏の女を娶っており、即位に及び貴妃に拝され甚だ寵愛された。后は心を傾けてこれに下り、尚方の供奉品はその上等のものを常に貴妃に譲り自らは次のものを用いたという。高宗の崩御に際し始興王叔陵が乱を起こしたが、後主は后と楽安君呉氏の助けにより難を免れた(詳細は叔陵伝にある)。後主の即位により后は皇太后に尊ばれ宮を弘範と号す。当時、淮南の地を新たに失い隋の軍が長江に臨む中で国は大喪に遭い、後主は瘡を病んで政務を執れなかったため、叔陵の誅殺・大行の喪事・辺境防守・百司の衆務は後主の命を仮りつつも実際にはすべて后が決した。後主の瘡が癒えると政を返した。陳の滅亡後、長安に入り大業十一年、東都で薨じた。年八十三。洛陽の邙山に葬られた。后は性謙謹で宗族のために便宜を求めたことがなく、衣食もまた分け与えることがなかった。弟の盼は太建中に世祖の女富陽公主を娶り駙馬都尉を拝し、後主の即位により帝の舅として散騎常侍を加えられたが、盼は性愚戇で酒を頼み、酔って馬に乗り殿門に入り有司に劾せられ官を免ぜられ家で卒し、侍中中護軍を追贈された。后の従祖弟柳荘は清警で識見があり、太建末に太子洗馬として東宮の管記を掌り、後主の即位によりしだいに散騎常侍・衛尉卿に遷り、禎明元年、右衛将軍に転じ中書舎人を兼ね雍州大中正を領した。盼の卒後、太后の宗属で近しい者は荘のみとなり、素より名望があったためいっそう恩遇を受け、まもなく度支尚書に遷った。陳の滅亡後、隋に入り岐州司馬となった。