陳書卷七 列傳第一 後主沈皇后

陳の後主の皇后、沈婺華。儀同三司望蔡貞憲侯沈君理の女、母は高祖の女会稽穆公主。太建三年に皇太子妃として納れられ、後主の即位により皇后に立てられた。性質端静で聡敏、経史・書翰を能くしたが、後主の寵は薄く張貴妃が後宮の政を独占する中、淡然として忌みも怨みもせず倹約な暮らしを送った。陳の滅亡後は後主とともに長安に入った。

年表(1件)

後主沈皇后

  • 後主沈皇后、諱は婺華、儀同三司望蔡貞憲侯沈君理の女。母は高祖の女会稽穆公主で早くに亡くなった。后は幼いころ深く憔悴するほど哀毀し、喪が明けても歳時・朔望のたびに独り座して涕泣し哀しみを表し、内外皆その孝心を敬異した。太建三年、皇太子妃として納れられ、後主の即位により皇后に立てられた。后は性質端静で嗜欲少なく聡敏・記憶力に優れ経史を渉猟し書翰を能くした。かつて後主がまだ東宮にあった頃、后の父君理が卒すると、后は別殿で喪に服し礼を過ぎるほど哀毀した。後主の后への待遇は薄く、張貴妃が後宮の寵を独占して後宮の政もことごとく張貴妃に帰したが、后は淡然として忌みも怨みもせず、居処は倹約で衣服に錦繡の飾りなく、左右近侍はわずか百人ほど、図史を尋ね閲し仏経を誦することを事とした。陳の滅亡後、後主とともに長安に入り、後主の薨去に際しては自ら哀辞を作りその文は甚だ酸切であった。隋の煬帝が巡幸するたびに常に従駕させたが、煬帝が宇文化及に害されると、后は広陵から長江を渡り郷里に帰り、以後の消息は知れない。后には子がなく、養った孫姫の子胤を自らの子とした。后の宗族には顕官が多く、事は君理伝にある。后の叔父君公は梁の元帝の敗北後、常に江陵にあったが、禎明中に蕭瓛・蕭巖とともに軍を率い隋に叛いて朝(陳)に帰順し、後主は太子詹事に抜擢した。君公は博学で才弁あり後主に深く器重された。陳の滅亡後、隋の文帝はその叛いた過去を理由に建康で斬らせた。

張貴妃(附伝)

  • 後主張貴妃、名は麗華、兵家の女。家は貧しく父兄は席織りを業としていた。後主が太子であったころ選ばれて宮に入った。当時龔貴嬪が良娣であり、貴妃は十歳でこれに給仕したが、後主が見て気に入り寵愛を受け身ごもり太子深を生んだ。後主の即位により貴妃を拝され、性聡恵で甚だ寵遇された。後主は常に貴妃を伴い賓客と遊宴し、貴妃は諸宮女を推薦して同席させ、後宮の者は皆その恩に感じ競って貴妃の善を語ったため、寵愛は後宮に傾いた。また厭魅の術を好み鬼道を借りて後主を惑わし、宮中に淫祀を置いて妖巫を集め鼓舞させ、それによって外事を探らせた。人間に一言一事あればまず貴妃が知り後主に告げるため、いっそう重んじられた。内外の宗族も多く引き立てられた。隋軍が台城を陥落させると貴妃は後主とともに井戸に入ったが、隋軍がこれを引き出し、晋王広は貴妃を斬らせ青溪の中橋に晒させた。

史論

  • 史臣、侍中鄭国公魏徴が記書を考覧し故老に詳しく尋ねたところによれば、後主が即位して間もなく始興王叔陵の乱で傷を負い承香閣の下に伏していた際、諸姫は皆近づくことを許されず、ただ張貴妃のみが侍り、柳太后はなお柏梁殿(皇后の正殿)に居たという。後主沈皇后は素より寵がなく看病を許されず求賢殿に別居していた。至徳二年、光照殿の前に臨春・結綺・望仙の三閣が築かれ、高さ数丈で各々数十間、窓牖・壁帯・懸楣・欄檻の類はすべて沈檀香木で作られ、金玉で飾り珠翠を間にちりばめ、外には珠簾を垂らし内には宝床・宝帳を設けた。その服玩の類の瑰竒珍麗なることは近古に例がなく、微風が吹くと香りは数里に及び、朝日が照れば光は後庭に映えた。その下には石を積んで山とし水を引いて池とし、竒樹を植え花薬を交えた。後主は臨春閣に、張貴妃は結綺閣に、龔・孔の二貴嬪は望仙閣に居し、複道でつながって互いに行き来した。さらに王・李の二美人、張・薛の二淑媛、袁昭儀、何婕妤、江脩容ら七人が寵を受け代わる代わる三閣に遊んだ。文学ある宮人の袁大捨らを女学士とし、後主は賓客を伴い貴妃らと遊宴するたびに諸貴人・女学士と狎客に新詩を作らせ互いに贈答させ、艶麗なものを選んで曲詞とし新声を被せ、容色ある宮女を千百人選んでこれを習わせ歌わせ、分けて交互に演奏させて楽しんだ。その曲に「玉樹後庭花」「臨春楽」等があり、大旨は張貴妃・孔貴嬪の容色を美えるものであった。その詞には「璧月夜夜満ち、瓊樹朝朝新たなり」の句がある。張貴妃は髪の長さ七尺、黒く艶やかで光沢は鏡のようであり、特に聡恵で神彩があり、立ち居振る舞いは閑雅、容色端麗、瞻視盼睞のたび光彩が目に溢れ左右を照らし、常に閣上で化粧して軒檻に臨むと、宮中から望めば漂うことまるで神仙のようであった。才弁記憶力に優れ、主上の顔色をよく窺った。当時後主は政事を怠り、百司の啓奏はすべて宦者蔡脱児・李善度を通じて進められたが、後主は張貴妃を膝の上に置き共にこれを決した。李・蔡が記憶しきれないものも貴妃はすべて漏れなく条疏したため、いっそう寵異を加えられ後庭に冠絶した。後宮の家々で法度に従わず理に触れる者があれば、貴妃に哀を求め、貴妃は李・蔡にまずその事を啓上させたうえで、後主に静かに言上させた。従わない大臣があればまた讒言され、言うことはすべて聞き入れられた。かくして張氏・孔氏の勢は四方を焦がすほどになり、大臣・執政も風に靡くように従い、閹宦・便佞の徒が内外で結託し賄賂が公然と行われ、賞罰は常なく綱紀は乱れきった。

  • 史臣曰く。『詩経』は関雎の徳を表し、『易』は乾坤の基を著す。夫婦の際は人道の大倫である。もし配偶として天則に協い王化を燮賛するというのであれば、宣太后(高祖章皇后)にその美徳があったといえよう。