隋唐演義第七十六回 彩楼を結い嬪御たちは詩を評し、灯市に遊び帝后は楽しみに興じる (結彩樓嬪御評詩 游燈市帝后行樂)
沈佺期と宋之問の才
(詞:女が才を誇り宮中で戯れるのは体面を損なうと戒める内容)
男に徳あれば才は評価されるが、女は才があっても徳が伴わねば意味がないという議論から説き起こす。唐の宮中は規律が緩く、群臣が后妃・公主と親しく詩を唱和することが常態化していた。
朝臣に宋之問(字延清)と沈佺期(字雲卿)という二人の文才の士がおり、優劣つけがたい仲であった。宋之問は容姿に優れ風流だったが、口臭の持病があり、武后の寵を得ようとしたが叶わなかった。沈佺期は張易之一派、のち安楽公主に取り入り、汚職で左遷されたが公主の口利きで復職した。
賦詩の応酬
安楽公主が新邸を構えた際、中宗の行幸に従い沈佺期が七言律詩を献じて称賛を受けた。公主は「沈あれば宋も」と宋之問を呼び、五言排律を作らせ、これも絶賛された。二人は褒賞を得たが、沈佺期は公主が宋之問を「才は当代無双」と評したことに内心不満を抱いた。
景龍三年正月、中宗は昆明池に行幸し、群臣に即事の詩を作らせた。韋后の勧めで、上官婉児に群臣の詩を評定させることになった。彩楼を設け、婉児がそこで審査する趣向である。
眾臣の詩が次々と選に漏れて楼から落とされる中、沈佺期・宋之問の詩だけが残った。二人は互いに、選ばれた方を優劣の決着とすることを約した。まず沈佺期の詩が落とされ、婉児の評は「二人の技量は互角だが、沈の詩は結句で気勢が尽き、宋の詩はなお勢いがある」というものだった。宋之問の詩が最終選に残り、中宗・韋后・公主たちに絶賛された。詩には昆明池にまつわる漢代の故事(劫灰の由来、豫章台の石鯨)が詠み込まれていた。以後、沈佺期は宋之問に一歩譲るようになった。
上元の灯会と観燈
中宗はますます政事を顧みず、遊興にふけった。景龍四年正月、上元の灯会が盛大に行われ、韋后は上官婉児や公主たちと共に中宗を誘い、微服で市中に観燈に出た。供の武三思らも変装して同行し、庶民の中に紛れて遊び歩いた。人々は「これは大内の人々に違いない、皇帝も体面を顧みぬものだ」と陰口をきいた。あわせて数千人の宮女を市中に放ち遊ばせたが、帰宮の際に何人もが行方知れずとなり、追及されずうやむやにされた。
玄武門の余興と諫言
灯会の後、中宗は玄武門で宮女の水戯を観、群臣に技芸を披露させた。国子監祭酒の祝欽明が自ら醜態を演じる「八風舞」を舞い、失笑を買った。吏部侍郎盧藏用はこれを恥として同席者に漏らした。国子監司業郭山暉は、中宗に問われて『詩経』の「鹿鳴」「蟋蟀」の篇を諷詠し、暗に諫めた。中宗はその意を悟り、宴を切り上げた。
定昆池と回波辞
安楽公主は昆明池を私有の池として求めたが中宗に断られ、代わりに巨費を投じて定昆池を造営させた。中宗が行幸した際、群臣に賦詩を命じたところ、黄門侍郎李日知は「居する者の逸を願い、作る者の労を言わせるな」との諷諫の句を奏した。中宗はこれにも心動かされ、詩作を取りやめ酒宴のみとした。
酔いが回ると、優人らに「回波の舞」を舞わせ、群臣にも回波辞を吟じさせた。沈佺期は左遷からの復職を暗に訴える辞を吟じ、中宗はこれに応じて太子詹事への昇進を約した。優人の臧奉は、御史大夫裴談が妻を恐れる逸話(「怕婆」)にかけて韋后の権勢を諷する俚語を歌い、中宗・韋后の笑いを誘った。諫議大夫李景伯だけはこれを不快とし、宴席での度を越した戯れを戒める辞を奏したため、中宗は不興となり宴を終えた。翌日、臧奉を処罰しようとする声もあったが、韋后が先んじて金帛を賜ったため沙汰止みとなった。
評語
宮中の風紀が乱れ、優人の戯言すら皇帝より皇后の権威を憚る有様となったことを嘆き、綱紀が地に落ち陰(后妃)の勢いが陽(帝権)を凌ぐ世相を批判している。