隋唐演義第五十五回 徐世勣はひとたび慟哭して喪礼をなし、唐の秦王は自ら弔い軍心を服させる (徐世勣一慟成喪禮 唐秦王親唁服軍心)
魏徴の願い出
李密・王伯当の首級が長安に晒されると、魏徴は深く心を痛め、秦王に「王伯当は義を全うして死んだ、自分もかつて李密の恩を受けた身として、その屍を弔い葬りたい」と願い出た。秦王は魏徴の必要性から渋るが、魏徴は「漢の高祖が項羽を王の礼で葬った故事」を引き、唐の寛容さを示すことが旧魏の将士の帰順を促すと説き、秦王もこれを容れて唐主に奏上、唐主は李密・王伯当の妻子や魏の逃亡将士を赦す詔を発した。魏徴は熊州へ向かった。
徐世勣・秦叔宝の反応
黎陽を守っていた徐世勣は李密敗北の報を受け、事態を静観していた。蕭銑を討って凱旋した秦叔宝・羅士信が黎陽に立ち寄り、李密の顛末を知る。秦叔宝は母の消息を尋ねるが、実は母・妻・子はすでに秦王の計略で長安に送られていたことを聞かされ、動揺する。母からの手紙で無事を確認し安堵するが、魏公がまだ唐にいる状況では軽々に動けないと考え、徐世勣に相談する。徐世勣は「もう少し情勢を見極めてから唐に赴くべき」と助言し、秦叔宝は羅士信を先に長安へ送って母を安心させることにした。
秦叔宝は単雄信との旧い誓い(生死を共にする義盟)を気にかけるが、徐世勣は「単雄信は一途で時勢を読めない人物であり、唐への旧怨(唐主が単雄信の兄を殺した過去)を捨てきれない」として、無理な説得は諦めるよう述べた。
李密・王伯当の遺骸
賈潤甫が黎陽を訪れ、李密の唐への帰順から独孤公主との一件、離反・逃亡・熊耳山での最期までを詳しく語った。まもなく魏徴も現れ、同様の顛末を伝え、唐主から下賜された赦免の詔を示した。魏徴は熊耳山で老僧(元は李密の側近)の案内により李密・王伯当の遺骸を探し当て、仮の棺に納めて庵に安置したこと、ただし首級はまだ長安に晒されたままであることを語った。
徐世勣は「唐に帰るなら堂々と行くべきで、哀れみを乞うような形では魏の臣が侮られる」と方針を定め、自ら先に長安へ赴くことにした。単雄信の家族は瓦崗に残し、様子を見てから改めて処遇を決めることとした。黎陽の倉庫は民に分け、兵には俸給を払い、喪服・喪旗に改めて熊州へ向かう手はずを整えた。
徐世勣、首級を弔う
徐世勣は長安に着くと、晒された李密・王伯当の首級の前で慟哭し、捕らえられて唐主の前に引き出される。徐世勣は「王経・鍾会・蔡邕らの故事」を引いて主君への義を貫くことの正当性を説き、唐主は感銘を受けてその場で赦し、首級を下げさせた。さらに徐世勣は首級の下賜を願い出て、礼を尽くして李密を葬ることを許された。
熊耳山での埋葬
秦叔宝・魏徴・徐世勣・程知節らが熊耳山に集い、李密・王伯当を丁重に埋葬する準備を進めた。途中、程知節は瓦崗の旧部下(尤俊達・連巨真)や李密・王伯当の遺族(王娘娘、伯当夫人)を伴い、賈潤甫とも再会する。賈潤甫は単雄信の家族を王世充のもとへ送り届けた後、隠棲を選んで去った。
墓所が完成し、李密・王伯当の柩が納められると、王娘娘と伯当夫人は悲嘆のあまり自害を図るが、周囲に止められた。王娘娘は幼い遺児(世子)の将来を三将(徐世勣・秦叔宝・魏徴)に託した。
秦王の弔問
秦王は「劉備が周瑜を弔った故事」に倣い、国家のために自ら熊州へ赴いて弔うことを決意、朝廷からの御祭とともに熊耳山を訪れた。魏の将士は整然とした礼をもって出迎え、秦王は李密・王伯当の位牌の前で涙を流して祭り、幼い遺児の姿に一同がもらい泣きした。秦王は犒賞の銀を配り、諸将の心を得た。
唐への帰順完了
その後、徐世勣・秦瓊(叔宝)・羅士信・尤俊達・連明・王簿ら瓦崗以来の諸将は兵を率いて長安に入り、唐主に謁見、それぞれ将軍職を授けられた。王簿は自らの任官を辞退し、「李密の遺族(独孤公主のもとにいる遺児と王伯当の妻)を見捨てず扶養してほしい」と諫言、唐主はこれに感心し、遺族を邢府に引き取らせ、王簿にも改めて官職を与えた。
劉武周の侵攻
折しも劉武周配下の宋金剛・尉遲敬徳が并州に攻め込み、太原が危機に陥った。唐主は将の不足を憂うが、徐世勣らが討伐を願い出た。尉遅恭(敬徳)の勇猛さを恐れる唐主に対し、秦叔宝はその肖像を塗りつぶして討伐の意気込みを示し、唐主は徐世勣を討虜大元帥、秦瓊を討虜大将軍、秦王を監軍大使として并州へ向かわせた。
評語
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