續明紀事本末李自成残党の乱(自成遺亂)

宏光元年(1645年)の李自成死去から康熙三年(1664年)の李来亨自焼死まで20年、自成残党である忠貞営・十三家営の変遷を描く。李錦(李赤心)・高一功(高必正)は何騰蛟・堵允錫の懐柔で明に帰順したが、統制は取れず郝永忠の虐殺・略奪が繰り返された。何騰蛟・堵允錫が相次いで没した後、残党は孫可望とも衝突しつつ四川東部で「十三家営」として抵抗を続けたが、康熙年間に清軍の包囲で次々討たれ、最後まで残った李来亨も茅麓山で自ら焼身自殺した。

年表(14件)

宏光元年(1645年)夏

  • 李自成は武昌に拠り、李錦・高一功・田見秀・劉宗敏ら四十八部数十万の軍を従えていた。江夏を瑞符県と改め宮殿を建て「永昌」銭を鋳造するなど再起を図るが、暴風に旗竿が折れる不吉な兆しに動揺し、南京攻略を断念して湖南への転進、張献忠との合流を図った。
  • 自成本隊は湖北から九宮山へ向かう途中、わずかな供回りで山頂へ登った際、地元の農民に鋤で討たれて死んだ(片目が眇であったことから自成と推定された)。湖広総督何騰蛟がこれを朝廷に報告し、隆武帝は大いに喜んだ。
  • 自成の死を知った李錦らは激怒し、周辺の民を虐殺した後、皇帝の礼で自成を葬った。李錦・高一功が偽后高氏を奉じて軍を統率し、湖南へ移動。清の阿済格軍が追撃し、自成の一族や劉宗敏・任継栄らを討ち取った。
  • 李錦・高一功は洞庭湖に拠り長沙を窺うが、牛金星ら旧幕僚は逃亡した。魯王監国も自成一党の懐柔を試みるが応じなかった。劉体純・郝搖旗らは何騰蛟への投降を図り、長沙が一時危機に陥った。
  • 秋九月、何騰蛟は死を恐れず賊軍の懐柔に努め、劉体純・郝搖旗を招撫。堵允錫も李錦・高一功らに食糧支援を条件に降伏を促し、単騎で敵陣に乗り込んで説得に成功。自成の后高氏も感激して協力を誓い、田見秀・劉汝魁らも相次いで投降した。
  • 十一月、隆武帝の朝廷では自成残党への処遇を巡り議論が紛糾したが、最終的に何騰蛟を東閣大学士・総督楚師、堵允錫を総制高氏軍に任じ、李錦を「忠貞営」(李赤心と改名)、高一功(高必正と改名)を統率させることとし、高氏を「貞義夫人」に封じた。ただし隆武帝は自成の死を完全には信じておらず、後に高一功配下からの証言でようやく確証を得た。何騰蛟は李赤心・郝永忠(郝搖旗改名)・袁宗第らを「十三家営」として再編したが、軍紀は乱れがちで略奪も絶えなかった。
  • 十二月、劉体純・党守素が荊楚を北へ荒らし、清軍に敗れて四川へ逃れた。

順治三年(隆武二年)

  • 正月、何騰蛟は郝永忠・張光璧の軍で湘陰・藤渓の戦いに勝利。
  • 堵允錫は忠貞営に荊州攻めを命じ、六日にわたり猛攻するが陥落させられなかった。
  • 二月、清の勒克德渾が荊州を救援、忠貞営は大敗し四散。張鼐ら三千が清に降った。
  • 夏四月、劉体純らが襄陽・興安・漢中方面を転戦。
  • 秋八月、隆武帝が汀州にある中、何騰蛟配下の郝永忠が桂陽州で大虐殺を行い(住民を皆殺しにしたと伝わる)、隆武帝を救援できないまま隆武帝は落命、何騰蛟もこれを問い質せなかった。

順治四年(永暦元年)

  • 二月、何騰蛟配下の内紛で長沙が陥落。
  • 夏四月、孔有德軍の圧迫で堵允錫は永定へ、李赤心・高必正も敗走。郝永忠は永州で略奪を働いた。
  • 六月、高必正が武岡に入り、劉承允の圧力で堵允錫が忠貞営の統率を委ねられた。
  • 秋八月、四川方面では李乾徳・馬超・邢十万・袁宗第・劉体純・党守素らが各地を転戦し、賀珍・武大定と結んで後の「十三家営」の原型を形成。
  • 冬十月、郝永忠が桂林で大虐殺を働き、瞿式耜がなだめて全州・興安・霊川に駐屯させたが、蕭琦の讒言で永忠は桂林の財貨を狙って全州を放棄、全州は陥落した。
  • 十二月、堵允錫・李赤心らは衡州を攻略し長沙へ進んだ。

順治五年(永暦二年)

  • 二月、郝永忠が桂林で反乱を起こし、行宮に乱入して永暦帝を拉致同然に船へ移し大略奪を働いた。瞿式耜も辱められたが、焦璉の討伐案を退けて事を収めた。永忠はその後陳友龍軍を殺戮した。
  • 三月、四川方面で馬超・邢十万が清軍に連敗し崩壊。
  • 六月、堵允錫の指揮下、馬進忠が常徳を攻略し、忠貞営も荊門方面で勢力を拡大。永暦帝は李赤心らを公爵に晋じた。
  • 冬十月、忠貞営の統制権を巡り何騰蛟と堵允錫の間に軋轢が生じつつも、李赤心らは常徳・長沙方面で転戦。しかし各軍の統制は取れず、益陽・湘潭を屠り湘郷・衡山を陥すなど残虐な略奪が続き、長沙は徐勇の防戦で持ちこたえた。李赤心の軍紀の乱れを恐れた諸将が離反し、湖南は混乱を極めた。

順治六年(永暦三年)

  • 正月、何騰蛟は湘潭で李赤心軍の離反に遭い、捕らえられて死んだ。
  • 二月、清の済爾哈朗・孔有德が茶陵に進撃し、李赤心軍は永興で大敗(「山海関に次ぐ大敗」と評された)。
  • 桂林へ迫った李赤心を嚴起恆・劉湘客が慰撫し、高必正も謝罪して潯州に駐屯。陳邦傅は高必正を懐柔しようとするが拒まれ、以後両者は不和になった。
  • 夏四月、劉体純が西郷を荒らすが尼堪に大敗。郝永忠は何騰蛟への謝罪を口実に陳友龍を騙し討ちにした。
  • 五月、李赤心が梧州に入り略奪を続け、永暦帝の朝廷は恐慌に陥った。堵允錫が忠貞営の懐柔役を担うが金堡らに批判され、成果も上がらなかった。李赤心配下の劉芳宇・劉希堯は仲間割れして孔有德に降った。
  • 秋七月、李赤心が南寧で病死し、養子の李来亨がその軍を継ぎ、高必正が主導権を握った。他の残党(袁宗第、王進才、牛萬才ら)は各地に散り、降伏や戦死が相次いだ。
  • 冬十二月、堵允錫は忠貞営を出迎える途上、潯州で没した。

順治七年(永暦四年)

  • 夏四月、高必正・党守素が朝廷に参内し歓待されるが、陳邦傅との対立から軍事衝突に発展し、湖南・広東方面での連携は失敗に終わった。
  • 冬、孔有德軍の圧迫で高必正・李来亨は貴州へ逃れるが孫可望と衝突し、四川南部へ転戦して屯田自活。旧四川勢力(王光興・譚洪ら)と合流し、いわゆる「西山賊」を形成した。まもなく高必正が没し、李来亨がその軍を統べた。
  • 郝永忠は房山・竹山方面を転々としながら略奪で命脈を保った。

順治八年(永暦五年)

  • 正月、文安之が川・湖の諸軍を総督することとなり、十三家営の諸将(王光興・李来亨・劉体純・袁宗第・党守素ら)が公侯に封じられたが、冊印は孫可望に奪われ実効性を持たなかった。李来亨は房・竹・夔・万・忠・涪一帯を拠点に屯田と略奪を繰り返した。

順治十四年(永暦十一年)

  • 文安之が四川東部の諸将を招撫し統率を試みるが、李定国の出師要請には応じなかった。

順治十五年(永暦十二年)

  • 十三家営の各将(劉体純、李来亨・郝永忠、塔天宝・馬翔雲、袁宗第・党守素、楊秉允ら)が四川東部の各地に割拠。呉三桂は当初これを「楚の賊」として静観していたが、後に降将嚴自明に重慶を守らせて牽制した。
  • 秋七月、文安之が呉三桂の遵義陥落を機に李来亨らと重慶を攻めるが、五昼夜の激戦の末に撃退された。

順治十六年(永暦十三年)

  • 正月、文安之は再度重慶攻略を試みるが陣中で没し、以後十三家営の勢力は徐々に弱まりつつも川東で明の旗号を掲げ続けた。

順治十八年(永暦十五年)

  • 冬、張煌言が使者を送り十三家営(西山諸営)に永暦帝救援を呼びかけるが、李来亨らは応じるだけの力を持たなかった。

康熙元年

  • 賀珍・袁宗第らが大昌・興山方面に拠り、郝永忠もなお数万の兵を擁していた。
  • 秋七月、陝西・四川・湖北の清軍が合同で西山の李来亨らを攻撃し、賊軍は夔州から撤退した。

康熙二年

  • 清軍が羊耳関を奪い、李来亨は天昌県を焼いて逃走。袁宗第は巫山まで追われ城を落とされた。李国英は巫山に重兵を配して封じ込めを図り、董学禮らの攻撃で李来亨・党守素らは各地の砦を転々とする窮地に陥った。清軍の大規模な包囲作戦が進み、来亨・郝永忠・劉体純・袁宗第らは激戦の末に大敗。劉体純は自ら縊死し、郝永忠・袁宗第らも追撃を受けて討たれた。

康熙三年

  • 党守素・馬翔雲・塔天宝らが相次いで清に降伏。ただ李来亨だけは茅麓山に拠って抵抗を続けたが、清軍(穆図瑪・図海・李国英)の包囲に大小数十戦を戦うも勝てず、部下の投降論にも応じず、最後は自ら住居を焼いて縊死した。

総括(末尾の論評)

  • 李自成は二十年にわたり天下を騒がせた大盗であったが、農民に討たれるという呆気ない最期を遂げた。天下の人心はこれを快としたが、著者は「君父の仇を天誅に委ねてよいものか」と問いを立てる。
  • 何騰蛟・堵允錫は湖南で心を合わせ自成残党の懐柔に力を尽くしたが、結局その統制に失敗し、騰蛟は李赤心軍に見捨てられて死に、允錫もその功を得られなかった。忠貞営・十三家営は名目上は明に帰順しながらも各地で凄惨な略奪・虐殺を繰り返し、常徳・郴州・桂林など多くの都市が荒廃した。
  • 著者は、たとえ賊であっても利用せざるを得なかった当時の窮状を悼みつつ、「弑逆の徒は一族もろとも滅ぼされるべきだが、李来亨のように最後まで明に殉じた者にはいくらかの酌量の余地がある」とし、しかし李定国や李元允のような真の忠臣とは決して同列に論じられないと結んでいる。