春夏 九錫の賜与
- 春正月、明堂で祫祭を行った。詔して、太上皇以来の一族について、それぞれの世代と氏に応じて郡国に宗師を置いて監督させ、教育を行き届かせた。教令に従わぬ者や、冤罪を受け職を失った者があれば、宗師が郵亭を通じて上書し、宗伯が奏聞することとした。
- 夏四月乙未、太師の孔光が薨じた。大司徒の馮商を太師とした。
- このとき上書して莽を推薦する吏民は前後で四十八万七千五百七十二人に達し、諸侯王・公卿で謁見する者はみな叩頭して、安漢公に褒賞を加えるべきだと言った。そこで詔策して莽に九錫の命を加えた。
- 羲和の劉歆ら四人は明堂・辟雍を造営した功、王惲ら八人は風俗を巡って徳化を明らかにした功で、みな列侯に封ぜられた。
- 閏月、梁孝王の九世孫の音を梁王に立てた。
冬 高廟の火災と平帝の崩御
- 冬十月乙亥、高廟と原廟の殿門が火災に遭った。志は、高廟は長安城中にあり原廟は渭水の北にあるので、そもそも建てるべきではなかった、とする。
- 初め、恵帝が長楽宮へ出向くために復道を築いたが、それが高廟へ通じる道の上に当たった。叔孫通が、子孫がどうして高廟の道の上を通れましょうか、と言った。帝は恐れて急いで壊そうとした。叔孫通は、君主に誤った振る舞いがあってはならない、渭水のほとりの衣冠が出遊する場所に原廟を建てられよ、と言った。
- 太后が導いて朝に臨み、莽に委ねたのは、正しからざる象である。
- 冬十二月、長楽少府を大司徒とした。丙子、帝が未央宮で崩じた。
孺子嬰の擁立と符命の起こり
- このとき元帝の血統は絶えていた。宣帝には孫が五人いたが、莽はその年長であることを恐れ、兄弟は互いに後を継げないと称して、元帝の玄孫にあたる広戚侯の子の嬰、三歳を召し、卜占の相が最も吉であるとかこつけて立てた。
- 前輝光の謝囂が、武功の亭長の孟宗が井戸を浚えて白い石を得、そこに丹書があって安漢公が皇帝となるべしとある、と奏上した。符命の興りはここから始まった。
- 莽はついに居摂を図り、周公の故事に倣ってすべて天子の制と同じにした。翌年、改元して居摂元年とした。
- 莽は奏して、帝の母の丁姫と祖母の傅太后の葬礼は礼に合わないとし、その墓をいずれも暴かせた。傅太后の墓を開くと崩れて数百人を圧死させ、臭気は数里に及んだ。丁姫の墓を暴くと火が四、五丈も噴き出し、燕の群れが土をくわえて墓の上に投げた。
史論(讃曰)
- 孝平の世は政治が王莽から出た。莽は善を褒め功を顕彰して自らを尊く盛んに見せた。その文辞だけを見れば、四方の百蛮で慕い服さぬものはなく、めでたい徴と嘉い応が現れ、頌える声が一斉に起こったかのようである。
- しかし異変が上に現れ、民が下で怨むに至っては、莽もそれを言葉で飾りきることはできなかった。