- 三月、東郡に石が八つ隕ちた。
- 夏六月、潁川の鉄官の徒である申屠聖ら百八十人が長吏を殺し、庫の兵器を奪って将軍を自称し、諸郡国を経巡った。丞相長史と丞を遣わし、軍興の扱いで追討させ、みな処罰された。
王鳳の死と王音の登用
- 秋八月丁巳、大司馬大将軍の王鳳が薨じた。王鳳の病が篤くなり、帝が見舞って手を執り涙を流し、「将軍に万一のことがあれば、平陵侯の譚が次の将軍であろう」と言った。王鳳は頓首して泣き、「譚らは臣にとって至親ではありますが、行いはみな奢侈で、御史大夫の音が謹み慎むのに及びません。死をもって争います」と述べた。
- はじめ王譚は驕って王鳳に仕えようとせず、王音は恭敬だったので王鳳が薦めたのである。王鳳が薨じると王音が大司馬車騎将軍となって政を執り、王譚は城門の兵を鎮めることとなった。王音は従舅の身で序を越えて小心に職に励んだので、帝はこれを嘉して安陽侯に封じた。
- 王譚は王音が序を越えたのを見て隙を生じ、城門の職を受けずに薨じた。帝は憐れんで悔い、成都侯の王立を特進として城門の兵を領させ、大将軍府と同様に吏を挙げられるようにした。
- 郎中で魏都の杜業が王音に説いた。恩が深ければ養いは謹み、愛が至れば報いはめでたい。親しいのに特別扱いされず、近いのに区別されなければ、誰が怨まずにいられよう。棠棣・角弓の詩が作られたのはそのためである。昔、秦伯は千乗の国を持ちながらその母弟を容れられず、春秋はこれを譏った。周公・召公はそうではなく、忠をもって輔け義をもって匡し、聖徳を独り占めして国の寵を兼ねることなく、陝で職を分けてともに輔弼となった。だから内には怨恨の隙がなく、外には侮りの嫌疑がなく、ともに天の佑けを享け高明を担った。
- いま成都侯については、明詔が将軍を優寵しているのだから、聖意に順ってこれまでよりも厚遇し、事あるごとに必ず与らせるべきである。昔、魏の文侯は大雁の献に悟って父子はいっそう親しくなり、陳平は一飯の膳を供して将相の歓びを増した。接する場は柱や階、俎豆の間にすぎないが、国のために衝を折り難を防ぐ効き目は遠大ではないか、と。王音はその言を大いに受け入れた。杜業はのち涼州刺史となった。
- 冬十月丁卯、光禄勲の于永を御史大夫とした。