前漢紀前漢孝成皇帝紀一 河平二年 前27年

沛郡の鉄と楚国の雹

  • 春正月、沛郡の鉄官が鉄を鋳たところ、溶けて落ちず、雷や鼓のような音が轟いた。工人十三人はみな驚いて逃げ、音がやんでから戻ってみると、地は数尺陥没し、炉は十一に分かれ、炉中の溶けた鉄は流星のように散って飛び去っていた。
  • 夏四月、楚国に釜ほどの大きさの雹が降った。

王氏五侯

  • 六月、舅の禁を平陽侯、莽を成都侯、立を紅陽侯、根を曲陽侯、逢時を高平侯に封じた。同じ日に封を受けたので、世に五侯と呼ばれた。
  • 王氏の子弟はみな卿大夫・侍中・諸曹となって要職を分け占め、朝廷に満ちた。政事はすべて側近で決せられた。
  • 帝はかつて劉向の少子である劉歆が通達で異才があるとの推薦を受け、召し見て大いに気に入り、中常侍にしようとして衣冠を用意し、まさに任じようとした。左右が「大将軍の意向がまだわかりません」と言うと、帝は「これしきの小事に大将軍に問う必要があるか」と答えた。左右が叩頭して強く争ったので、帝は王鳳に告げた。王鳳が不可としたため取りやめとなった。権を握って事を行うありさまはこのようであった。公卿は王鳳を見ると横目に見るばかりで、郡国の刺史・太守・相はみな王鳳の門から出ていた。
  • 五侯の弟たちは競って奢侈に走り、邸宅を造営した。百姓はこれを歌って、五侯がみな立ったが曲陽侯が最も勢い盛んで、高都を壊して境の外まで通じ、土を杜いで山を作り、漸台は西の白虎を象る、といった。その奢侈ぶりはこのようであった。しかし彼らはみな人事に通じて機敏で、士を好み賢者を養い、財を傾けて施し与えることで互いに競い合った。

五侯の客と隠者たち

  • そのころ谷永と斉の人の楼護がともに五侯の上客であった。他の者はそれぞれ特定の一人に親しんで左右をまたげなかったが、楼護だけはすべての門に入り、それぞれの歓心を得た。士大夫と交わってなびかせない相手はなかった。
  • 楼護は医者の子で、背が低く、弁が精密で、議論はつねに名節に依ったので、聞く者はみな襟を正した。当時の人は「谷子雲の筆札、楼君卿の脣舌」と言い合った。信用されていることを言ったものである。
  • 楼護の母が死んで葬送したとき、引く車は二三千乗に及び、里ではこれを「五侯が喪を営み、君卿がその主だ」と言った。楼護は天水太守となったが免ぜられて帰郷し、大司馬の王商はわざわざ車騎を曲げてその町まで来て弔問した。

鄭子真と厳君平

  • このころ谷口に鄭子真、西蜀に厳君平がおり、いずれも行いを修めて身を保ち、正しい食でなければ食わなかった。王鳳はその名を慕って礼を尽くして鄭子真を招いたが、鄭子真は屈しなかった。
  • 厳君平は成都の市で卜筮を業としたが、それによって人に恵みを施した。正しからぬことを問う者があると、蓍亀に託して利害を説いた。人の子には孝に依って語り、人の弟には順に依って語り、それぞれの立場に応じて善に導いた。「私の言に従う者は、すでに半ばを過ぎた」と語った。また、数人を相手にして百銭を得れば自分を養うに足りるとして、店を閉め帷を下ろして老子の経を授けた。博覧で通じないものはなく、老子の旨に依って五十余万言を著した。
  • 李疆が益州牧となって京師を発つとき、揚雄に「私は本当に厳君平を吏として得られる」と言った。揚雄は「礼を備えて待てばその人に会えるでしょうが、屈することはありません」と答えた。李疆はそうは思わなかったが、厳君平に会って屈しないことを知り、「揚子雲はまことに人を知る。哲というべきだ」と嘆じた。