前漢紀前漢孝元皇帝紀中 永光五年 前39年

行幸と廟制の議

  • 春正月、甘泉に行幸し泰畤で郊祀した。三月、河東に行幸し后土を祀った。
  • 秋、潁川で水が出て人民が流され死んだ。吏や従官で県において被害を受けた者には告を与え、士卒は帰した。
  • 冬、長楊に行幸し、車騎を配して大規模な狩りを行った。
  • 十二月乙酉、太上皇と孝恵帝の寝園を毀った。
  • このとき丞相・列侯・中二千石・博士ら四十四人が奏議した。礼では、始めて命を受けた者、始めて封ぜられた諸侯の君はみな太祖となり、太祖を継ぐ五廟は順次毀つ。毀った廟の主は太祖に蔵める。五年に二度の殷祭があり、一禘一祫という。祫祭とは、毀った廟と未だ毀たぬ廟の主を太祖に合食させることである。父を昭、子を穆、孫はまた昭とするのが古の正しい礼である。
  • 祭義に「王者はその祖の出自を禘り、祖をもって配す」とあり、廟を立てないのは親が尽きているからである。親廟四を立てるのは親を親しむからである。周が七廟を立てたのは、后稷が始封、文王・武王が命を受けて王となったからで、この三廟は毀たず、親廟四と合わせて七である。后稷の始封、文武の受命の功がなければ、みな親が尽きれば毀つ。成王は二王の業を承け礼を制し楽を作り功徳茂盛であったが、廟はやはり毀たれ、行いによって謚を得たにとどまる。
  • 愚考するに、高祖は命を受け天下を定めたので高帝太祖の廟として世々毀たず、太上皇・孝文・孝恵・孝景の廟はみな親が尽きているので毀つべきである。皇考の廟は親がまだ尽きていない。このように、みな太祖の廟に就けて礼のごとく昭穆を序すべきである、と。
  • 大司馬の許嘉ら二十九人は、孝文皇帝は徳化茂盛であるから帝者の太宗の廟とすべしとした。廷尉の忠は、孝武皇帝は正朔を改め服色を易え四夷を攘ったので世宗の廟とすべしとした。諫議大夫の尹更始ら十六人は、皇考の廟を昭穆に序すのは正しい礼でなく毀つべしとした。
  • そこで皇帝は改めて昭穆を序し、廟を立てるにとどめ、世宗は残して毀たなかった。