賈捐之と珠崖の放棄
- 春、諸侯の相の位を郡守の下とした。
- 珠崖郡の山南県が反した。皇帝は群臣に広く議らせ、これを撃とうとした。待詔の賈捐之が答えた。
- 堯舜は聖の極みであり、禹は聖域に入りはしたが優れているとまでは言えぬ。ゆえに孔子は堯を「大なるかな」と称え、舜を「韶は美を尽くせり」と言い、禹を「吾これに間然することなし」と言った。三聖の徳をもってしても地は数千里に過ぎず、東は海に及び、西は流沙に被り、北は朔裔を尽くし、南は声教に及んだ。教化を受け入れる者は治め、望まぬ者は強いて治めなかった。
- 殷周の時、東は江・黄を越えず、西は氐羌を越えず、南は蛮荆を越えず、北は朔方を越えなかったが、君臣は徳を歌い頌声が並び起こった。秦は兵を興して遠く攻め、外を貪って内を虚しくし、天下は内から叛いた。
- 孝文は武を偃せ文を行った。千里の馬を献ずる者があったとき詔して「鸞旗は前にあり属車は後にある。師の行軍は日に三十里、騎は五十里を程とする。朕が千里の馬に乗って独りどこへ行こうか」と言い、馬を返して四方に献上を禁じた。このとき天下に事なく、断獄は数百件であった。
- 孝武皇帝は西は諸国を連ねて安西に至り、東は碣石を過ぎて楽浪に至り、北は匈奴を数万里退け、南は南海を制して八郡とした。兵革はしばしば起こり、父は前で戦い子は後で闘い、女は亭鄣に登り、孤児は道に啼き、老母や寡婦は街巷で泣き、道端に虚しい祭壇を設けて万里の外の魂を招いた。地を広げること甚だ大きく征伐は休まず、天下の断獄は数万人に上った。
- 今、関東は困乏して妻を嫁がせ子を売る者さえある。これこそ社稷の憂いである。詩に「蠢けるかの蛮荆、大邦を讎とす」とある。聖人が起これば後から服し、中国が衰えれば先に叛くという意で、古来これを患いとしてきた。まして反覆常なき南方万里の外の蛮ならなおさらである。
- 駱越の人は父子が同じ床に寝、風俗として鼻で飲み、禽獣と異ならない。これを領有しても郡県を置くに足らず、棄てても惜しむに足らず、撃たなくても威を損なわない。
- かつての羌渾の件で言えば、軍を出すこと一年に満たず、兵の進出は千里を越えなかったのに、費えは四十余万銭に及び、大司農の銭が尽きて少府の禁銭で継いだ。今、陛下が一時の怒りに堪えず士衆を駆って大海の中に捨て、幽冥の地で心を快くするのは、飢饉を救い民を全うする道ではない。往古に照らせば合わず、今に施しても不便である。
- 愚考するに、あそこはもともと冠帯の国ではなく、禹貢の及ばぬところ、春秋の治めぬところであるから、すべて廃してよく、経営するには及ばない、と。
- 皇帝が丞相の于定国と御史大夫の陳万年に問うと、万年は撃つべしとし、定国は捐之の議を是とした。皇帝は珠崖郡を廃し、内属を望む民は受け入れ、望まぬ者に強いなかった。
賈捐之の失脚
- 皇帝はしばしば捐之に会い、その言を多く採用した。のち石顕に讒毀されて、稀にしか会えなくなった。
- その後、長安令の楊興が才能によって皇帝に寵せられた。捐之は興を通じて再び拝謁の機会を得ようとして言った。「私が上に会って君蕳を京兆尹にと申せば実現する。私が前後に薦めた者はみなその通りになった。」興は「県官はかつて、興は薛大夫より勝ると言われた。私は助けやすい。君房を尚書令にすれば五鹿充宗よりはるかに勝る」と言った。捐之は「私が充宗に代われれば、君蕳を京兆尹にできる。京兆尹は郡国の首、尚書は百官の本だ。天下はよく治まり、士は隔てられまい」と言った。興は「石顕は上の信任するところだ。今はまず意に合わせれば入り込める」と言った。
- 捐之は興とともに奏を作って石顕を推薦し、あわせて興を京兆尹に薦めた。顕はその議を聞いて上申し、興と捐之は獄に下された。有司は「捐之と興は詐りを懐いて互いに推薦し合い、省中の語を漏洩し、上を欺いて不道である」と弾劾した。捐之は棄市、興は死を減ぜられた。
災異と減省
- 夏四月乙未、茂陵の白鶴館に火災があった。本志はこう解する。白鶴館は五里の走馬の館であって、山陵・昭穆の地にあるべきものではない。天の戒めは「寵愛されて逸遊する不正の臣を去らせ、正位に置くな」と言っているようなもので、石顕を病む象である。
- 天下に赦した。夏に旱があった。長沙煬王の弟である宗を王に立てた。故海昏侯の賀の子を侯に封じた。
- 六月の詔。朕は衆庶の飢寒を思う。父母妻子から遠く離れ、生業でない作業に労し、人の住まぬ宮を衛らせている。建章・甘泉の衛士令を廃し、それぞれ農に就かせよ、と。丞相・御史に、天下で陰陽に明るい者を各三人挙げさせた。