前漢紀前漢孝宣皇帝紀一 本始元年 前73年

  • 春正月、使者に節を持たせて諸郡国に詔し、民を慎んで養い教化に努めさせた。
  • 大将軍霍光が頭を下げて政を返上したが、帝は謙譲して受け入れず、そのまま任せた。政務はすべてまず霍光に報告され、しかるのち奏上された。霍光に一万七千戸を加封し、黄金七千斤・銭六千万・雑色の綵繒三万疋・奴婢百七十人・馬三千匹・甲第一区を賜った。将軍張安世は万戸侯に封じられ、その他も順に封を受けた。
  • 夏四月庚午、地震。五月、鳳凰が膠東・千乗に集まった。天下に恩赦し、吏民に爵を賜り、田租と賦を免じた。
  • 六月、詔して「故太子は湖に葬られたまま諡号がなく、歳時の祭祀もない。諡を議し、園邑を置け」と命じた。担当官が奏上した――礼では、他家の後嗣となった者はその家の子であるから、実の父母を降して祭れない。これが祖を尊ぶ義である。陛下は孝昭の後を継いで祖宗の祀りを承けておられ、礼を制するには限度を越えぬもの。愚考するに、実父には悼考、実母には悼后と諡すのがよい。これは諸侯国の格式であり、奉邑三百戸を置く――と。
  • 故皇太子(衛太子)の陵は戻園とされ、奉邑二百家が置かれた。史良娣は戻夫人と号し、守冢四十家を置いた。園には長・丞を置き、周衛と奉守は法どおりとした。太子には妃・良娣・孺子の二等があり、いずれの子も皇孫と称した。
  • 史良娣は魯国の人で、兄を恭といい、その三子は高・曾・玄といい、のちいずれも列侯に封じられた。悼后の王氏は涿郡の人で、兄の無故は平昌侯、次の武は昌楽侯に封じられた。外祖母には博平君の号と食邑一万一千戸が与えられ、外祖父の王乃始は恩成侯として追尊された。涿郡に詔して墓を整え、園邑四百家と長・丞を置き、奉守は法どおりとした。
  • 秋七月、燕の刺王の太子建を広陽王に、広陵王胥の少子の弘を高密王に立てた。

路温舒の上書

  • 廷尉史の鉅鹿の路温舒が上書した。
  • 斉に無知の禍があって桓公が興り、晋に驪姫の難があって文公が覇を唱えた。近くは趙王が天寿を全うせず諸呂が乱を起こしたが、孝文帝が太宗となった。これで分かるとおり、禍乱の発生は有徳の者に道を開くためである。昭帝が嗣なく世を去り大臣が憂え、昌邑王が即位して淫乱により廃されたのは、皇天が至聖の君に道を開いたのである。変乱の後を継ぐ者には必ず傑出した徳がある。これが賢者が天命を推し量る根拠である。
  • 春秋は即位を正して大一統とし、始めを慎む。陛下は初めて至尊に登り天と符を合わせておられる。前代の失を改め、始まりの統を正しく受け、煩瑣な法文を洗い流し、民の苦しみを除き、亡びたものを存し絶えたものを継いで、天意に応じられるべきである。
  • 獄は天下の大命である。書経に「無罪の者を殺すよりは、法を外れる方がまだよい」とある。今の獄を治める者は皆、人を死なせたがる。憎いからではない。上下が相次いで、酷であることを明察とし、厳しい者が功名を得、公平な者はのちの患いが多いからである。自分の身を安んじる道が人の死にかかっているのだ。
  • 人情として、安らげば生を楽しみ、痛めば死を思う。笞打ちのもとで何を求めて得られぬことがあろう。囚人は痛みに耐えかねて偽りの供述を飾って見せ、吏は殺すのが得だから誘導して明白にし、上奏が却下されるのを恐れて文面を鍛え上げ周到に仕上げる。奏文が完成したときには、たとえ咎繇が聴いても死んで余りある罪と見えよう。法文の仕立て方が巧みだからである。
  • 「地に描いた獄でも入るまいと誓い、木を刻んだ吏にも問われまいと言う」という言葉があるが、これは皆、吏を憎み悲痛のあまり出た言葉である。だから天下の患いで獄より甚だしいものはない、というのだ。
  • 帝はこの言葉を善しとし、路温舒を広陽王の和府長史に遷した。のち臨淮太守となり、治績が際立った。